最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

加齢で前頭連合野の機能が低下したせいか

千の風になって」という歌があったが、あれが心に沁みるようになってしまった。流行した頃は「け。それっぽいね。」と思っていたのに、大事な人を何人も亡くす経験を積んでくると、ああいうふんわりした慰撫みたいなものこそが心に沁みる。

母方の親戚が多い家庭に生まれた。母を含む6人姉妹に最後に生まれた子供だったのでおば達をはじめいとこ達にも相当かわいがってもらった。でも数年前の長女を最後に姉妹は全員物故した。あの名物6姉妹の思い出には温かいものしかない。全員が母親みたいなものだった。

大事な友人も既に2人も失った。どちらも最後に交わした言葉がなんだったか思い出せない。それなのに永遠に去ってしまった。いつまでも癒えない生傷のようだ。そしてその数はこれから増える一方なのが確定している。

自分の次世代が育っていくのを頼もしく思う一方で、同世代以上の悲しみは積み上がっていく。死んだら無になるという認識で生きてきた。先日受けた全身麻酔でその認識はより確かなものになった。遠くの戦争で多くの命が失われるのですら耐え難いのに、自分の大切な人々の死が積み上がっていく現実を受け入れるのは容易ではない。それを単にいくつもの「無」として受け入れることは不可能だ。

でもどこかに天国とかあの世とかあってくれたらいいな、そこでまた会えたらいいなという願望が「きっと」満たされるはず、と思えると現実が生きやすくなる。ないと分かっているからこそ求める、そういう心の働きだ。そしてそんな時こそ超越性の出番だ。

無神論者の目で改めて浄土真宗本願寺派の法要を体験して感じるのは、あの黄金の空間と音、僧侶の声や所作、あらゆるビジュアルとサウンドと身体動作で構成された形式こそが超越へと導く仕掛けになっているということだった。豊かな倍音を含む鐘の音色やユニゾン微分音で構成された読経。そこに神秘が隠されていた。

ファクト、ロジック、合理性、のような唯物論的な概念が重視されがちなネット空間に存在しないものがそこには豊かに含まれている。人間の脆くて壊れやすい心は、硬いコンテナや段ボール箱では安全に保護できず、ふんわりとしたベールや風呂敷のようなものでないと包めない。

千の風になって」はそういうものだった。若い頃の自分は実に浅はかだった。高齢者に共感されたのは今ならよく分かる。高齢者とは単に年齢を重ねた人のことではなく、身近な死を数多く経験して耐えがたい悲しみを耐えている人々のことだ。そういう人に通じる「適切な」言葉なんてそうそうあるものではない。感情という不定形で得体の知れないものを慰められるのは、同じような不定形で得体の知れない何かしかないだろう。

 

この世を去ってしまった大切な人へ。あなたの魂の平安を心の底から祈っています。遠からず私がそちらへ伺う際は、またよろしくお願いします。

桜を見ない勇気

Twitter(CKAX: Currently known as X)のアイコンを、友人の死を悼んでしばらく前にみなとみらいで撮影したチョウゲンボウの写真に変更した。こうやって「友人の死」と打つだけでもいまだに抵抗がある。その情報は文字として見ただけで、マルチモーダルな方法で確認していないから感情的に受け入れられていないし諦められていない。手を尽くしてはいるが、今のところ反応がない。自分の中でちゃんとケリがつけられたら自画像に戻すつもりだ。

この件について考え始めると自分が停滞してしまうので他のことを考えることでそうならないようにしている。喪った友人のことについて時間をかけて悲しんだり誰かと語り合ったり思い出したりすることができない人生とはなんなんだと思わなくはないが、今現在が自分にとって重要な局面に差し掛かっていることも事実だ。

ついに3月が終わって4月になった。春だということを急に思い出したかのように暖かくなったが、桜もあわてて数日前に開花したらしい。桜は小石川後楽園新宿御苑で一緒に見たことがあった。……というように思考が引きずられてしまう。なのであまり積極的に桜を見るきになれない。

それよりも落ち着いて目先の難問をどうにかしよう。頭ばかり使ってないでたまには足を使おう。今までとは逆に足で頭を駆動しよう。そうすれば新たなものが見えてくるかもしれない。

話題になったアニメや億万長者が$100を90日間で$1Mにする動画などを見てセルフ鼓舞している。有名少年漫画誌のキャッチフレーズ友情・努力・勝利みたいなものには子供の頃からまったく乗れなかったが、勇気が重要っていうメッセージには共鳴できる。あれだけ連呼されて感化された面もあるかもしれないが、言ってると本当になることは案外ある。気力とか精神力みたいなぼんやりしたものではなく、意識を向ける先という意味で重要だ。子供がやっていた合気道で体感した「折れない手」という技でそれを知ったし、筋トレでもトレーニング部位に意識を向けるかどうかで結果が変わることも知った。これからは意識的に勇気を持って生きていきたい。おわり。

A, B そして C

自分の性質的になんでも引き伸ばす癖があると感じていたので、あえて早めに決めて早めに結論を出すようにしていたが、最近になって早々に結論を出さずにむしろしっかり時間をかけるべきだと思うようになった。pivotを厭わない精神は大事だが、当初に決めた路線をちゃんと追求する姿勢はそれ以上に大事だろう。株もそうだが、自分がやろうと決めたことをうまくいかないからさっさと損切りするのは、実は逆効果だったのかもしれない。もし費用が嵩むなら必要な金はシンプルな方法で稼げばいいとも言える。まずは1年と設定して始めた錦糸町ラボは、これからが良い時期なのではないかと感じ始めている。なんとか頑張って最低でも7月末までは続ける。

そうなると市ヶ尾はどうするかということになるが、当初は二足の草鞋を履きつつアルバイトとボランティアで雇って回せるようにしていく。自分は二つの場所に情報や人を流通する役割だろうか。

結局、人は人と出会うために場を必要とする。ネット上に新たに出会うことももちろんあるが、共通の場で偶然に出会う方が「強い」。それを否定しすぎると失うものが大きい。自分の過去の過ちはまさにそれで、デジタルカメラが出現した途端に銀塩カメラから完全に乗り換えたし、メモやカレンダーはさっさとスマホに完全移行し、電子書籍ブームが来た時は蔵書の多くを自炊(死語)してPDF化してクラウドに保存し、書籍の新規購入は電子書籍に限定した。その結果何が起きたかというと、1996年からしばらくの間の写真は低解像度のデジタル写真しか残らず、自由描画できる紙を手放したことで記録が硬直化し、紙でしか出版されない書籍を大量に取りこぼしてある時期の読書量が激減した。

新しい技術が来たからと言って即シフトするのは明らかに浅はかで、それをしていた自分は、何をするかよりもどうやるかを重視してしまっていた。きれいな写真を残したければしばらく銀塩カメラの時代は続いたわけだし、良質なコンテンツを読みたければ媒体の種類よりも内容を見るべきだ。クルマについては独特の使い方をするので、どう考えてもEVにできないという結論を出したわけだから、他のものについても同じように考えるべきだった。

同じように人同士が偶然接点を持って交流の幅が広がるのは、物理空間でのことが圧倒的で、ネット上では情報量がかなり限られる。文字を読むことでわかることもあるが、人間として魅力的な人の書く文章が壊滅的なことは結構ある。人間はLLMではない肉体を持った存在なので、やはり物理空間で出会い交流する豊かさを放棄するのはもったいなすぎる。

かと言って、これから付き合いが増えそうな俺以上の世代との交流の物理空間に偏った「重さ」もまたなかなか耐え難いものがある。ちょうど良いバランスで付き合っていきたいものだ。

やはり性質の違う2つのAとB、その二項対立を超えた第三項としてのCを目指すようなスタイルがどうしても自分の中の癖のように残っている。男女とか、老若とか、都市と地方とか、ロゴスとパトスとか、まず自明な二項を設定してその両方に目配せをしつつ対立ではない解としてのC。

地方(とは言っても横浜のベッドタウンだが)と都会(とは言っても下町だが)の両方に片足づつ乗せて新たなCを作っていけたら面白いだろう。

睡眠不足で意味不明っぽいがたぶん後で読んでも理解できるはずと信じて終える。

恥ずかしい昔の体験記をお焚き上げして供養する

西暦1995年 宇宙飛行士選抜試験受験記

-- 感動と涙と(笑い) --


 

8月のある日

日経の朝刊を見ていると、「宇宙飛行士募集」の記事が目に留まった。その瞬間、きたー!これは受けるしかない、10年前は応募資格を満たしてなかったから無理だったけど、これから退職してフリーになる今、神がくれた千載一遇のチャンスだ!と即決し、9月に入ったらすぐにNASDAに電話をして応募書類を送ってもらうよう頼んだ。電話に出た人の話しによると、書類請求の電話がじゃんじゃん来ているらしい。然り。応募書類を送るから住所氏名年齢を言えと言うので、伝える。いつもこういうときにうんざりするのだが、私の名前の漢字を電話で伝えるのは極めてむずかしいのだ。誰か「胤」という文字をことばでうまく伝える方法を教えてください。ところが、驚くべきことに、NASDAのおねーさんは、私が「『いん』という音なんですが、」と言っただけで「ああ、あの『風』のような形で『ごらくいん』の『いん』の字ですね」と事も無げに言うではないか。これだけでNASDAにたいする印象は「電話に出るおねーさんでもぼくの字を知ってる」ほど身近なものになったのだった。

 

10月19日(応募書類提出期限前日)

昨日は30回目の誕生日だった。それなりに感慨にふける。思えば遠くへ来たもんだ。そして明日が、応募書類提出締切日である。何でいつもぎりぎりになるのだろう、でもそういう風に30年やってきたんだもんなあ、それなりにこういう行動様式に愛着もでてきたなあ、などと思いつつ、青葉郵便局で速達書留で送る。局員さんによると、ちゃんと間に合うそうだ。やれやれ。

 

11月4日(書類審査の一環として英語検定

池袋桐杏学園にて英語検定。先日NASDA(宇宙開発事業団)から送られてきた「宇宙飛行士候補者整理票」を持って池袋へ。駅を降りて地図と見比べながらしばらくうろうろするが、どうも合わない。すると一人の青年が声をかけてきた。「受けるんですか?」「ええ。でも、どうも場所がよくわからないんですよねえ。こっちの方角で良いと思うんだけど。」とりあえずそれらしき方向に進む。「何の仕事してるんですか?」「えーと。実はこないだ○○総研を退職して、今無職なんですよ。」「あ、そーなんですか。僕は今××自動車でステーション作ってるんですよ。」「ふーん。」こういう場面で「ステーション」と言えば「宇宙ステーション」なのだと随分後になってから気がついたのだが、この時は「ステーション」という言葉の意味するものが仕事柄「ワークステーション」ぐらいしか思い付かず、別に珍しくもないと適当に聞き流してしまった。かの青年はそんな態度に拍子抜けしたらしく、その後の二人の会話はまるで盛り上がりに欠けるものとなったのは言うまでもない。

冷えた牛丼のような会話をしつつなんとか会場にたどり着くと、予想以上の人出で、物好きの多さに我を忘れてあきれそうになった。ちらちらとどういう人間が来ているのか観察してみると、宇宙飛行士!という顔(なんだそれは)した人達と、普通のおにーさんおねーさん顔の人達と、君達は何でここにいるの!という顔をした人達の3タイプに分類できた。割合は、2割7割1割くらい。私は当然最後の部類に入る。検定試験そのものについては、15年以上前に受けた英検三級の試験に似ていたような気もするが、ぜんぜん違うかもしれない。いずれにせよ最近親しんでいるTOEFLやTOEICなんかとはまるで違って、英文和訳や和文英訳で文章をがんがん書かせるのでとても新鮮な体験だった。久々に筆記用具で文章を書いたので、指も喜んでいることと思う。

できは、まあまあ。いずれにせよ書類審査なんだから応募者のほとんどは通るんだろう。この思い込みは後にあっさり覆されることとなる。

 

12月2日(第一次選抜試験1日目)

11月の21日、ちょうどアメリカから帰ってきた日に、NASDAから厚めの封筒が届いていた。どうせ通るだろうと思っていたので特に喜びもしなかったが、「宇宙飛行士候補者書類選抜結果及び第一次選抜試験の実施について(通知)」という長ったらしいタイトルの文書に、宇宙開発事業団総務部長名で、原口良胤殿に対して「さて、今般の書類選抜の結果、合格となりましたのでお知らせいたします。」と書いてあるのを見たら、ちょっと感動した。(あとでもっと感動しておけば良かったと悔やむことになる。)

当日朝8時に家を出て、電車を乗り継ぎ、ほとんど外国とも思える上野駅に着いたのが9時15分ごろ。確か25分発の常磐線に乗ればいいんだよな、と思っているところに便意が込み上げてきた。昨晩、検便のためにしばらく努力したものの果たせず、どうしようかと思っていたところにウェルカム便意!とは言うもののあと数分で電車が来る。これに乗れないとちょっと心配だが、我慢しすぎてせっかくのチャンスを逃したくないので、便所に駆け込む。トイレットペーパーがないので、例の水溶性ティッシュというやつを買おうとしたのだが、こまかいのがない。自販機でコーヒーを買って千円札をくずし、ダッシュで戻ってくると、開いていた個室はどこかの心ない人々に既に奪取されてしまっていた。しかたないので待つ。おっさんがやってきて、隣に並んだ。あーあ、こういう時日本の習慣では枠番指定制で、早いもん順じゃないんだよなあ、とラスベガスのCOMDEXで激しい便意をもよおしたときに米国の早いもん順制のおかげで救われた記憶がよみがえる。そんなことを考えながらもじもじしていると、おっさんが業を煮やして目の前のドアをノックした。すると、何としたことか!空室であった!この時ほどズボンをずり下げたみっともない足が見える米国式個室をうらやんだことはない。Shit! しかしほどなく私の目の前の扉が開き、めでたく排便とあいなった。ころあいを見計らって、検便用の爪楊枝みたいなやつでたった今排出された自らの生成物を5、6ヶ所ぷすぷすとやる。この感触。なかなか味わえないぞ。成果を見るべく先端を観察すると、通常に比べて粘性がやや高かったせいか、サンプルの写真に比べて量が多いようだ。「便が多いと正しい結果が出ませんっ!」という説明書の文句にビビり、己自身で少しこそぐ。これで完璧。意気揚々と個室を出て、ホームに向かうと、電車はついさっき出たばかり。あと20分以上来ない。駅からタクシーコースだが、まあ背に腹は代えられないのでよしとする。

入口で「宇宙飛行士候補者整理票」を見せてNASDA筑波宇宙センターに侵入する。土曜日とあって人気が少ない。中で見かける人達はきっとほとんど受験者だろう。宇宙実験棟までの長い道のりを歩きながら、冬の青空ときれいな構内を楽しむ。いろんな建物を見ながら、きっとここでは誰もこれらの建物をふざけて「サティアン」なんて呼ばないんだろうなあ、だってシャレになんないもんなあ、などと不謹慎な考えが頭をよぎる。

宇宙実験棟の入口で受付を済ませ、二階の試験会場に行くと、座席表があった。ざっと数えてみる。125。え?応募者の8割方、約450人が書類選考で落とされてる!なんてこった!残り20%に入っちゃった。いやいやこりゃあえらいこった。どうしよう。などとびっくらこいているうちに、心理適性検査が始まった。内容は二つに別れていて、一つはC.S.Aとかいうやつで10分ぐらい、もう一つはE.S.Tだかで残り80分ぐらい。昔JALのパイロットテストを受けたときにやったようなものを想像していたが、ぜんぜん違った。基本的には、一つの文章について1〜5でそう思う、思わないなどと評価するのだが、同じような内容の文が断定的だったり情緒的だったりあいまいだったり、いくつかの異なった表現でくり返し現われるので、人によっては表現のされかたによって評価が変わってくるかもしれない。その変わり方で性格をつかもうとしているように思えた。こういう類のものは正解もへったくれもないので、思ったままさくさくやっていくしかない。下手に深読みしたりするとかえって解答に整合性を欠いてしまい、分裂病なんかと診断されてもあれだ。ただ後半では仕事についての問いが山ほど出てきて、失業中の身では答えに悩むこともままあった。あと、「次のページからはユーモアたっぷりの漫画があります。おもしろさの程度を答えよ。云々。」などという質問があったので期待していたら、日本人にとっては面白くも何ともない、いわゆる欧米風一コマ漫画がずらずらと並んでいて、普段の感覚で答えようとするとすべて「1.まったくおもしろくない」になってしまう。そこでここはひとつ頭をお得意のインターナショナルモードに切り替えて、欧米人になったつもりで答えようとしたが、一部の下ネタについてはどうしてもプライドが許さず、1をつけざるをえなかったことをここに記しておく。

終了時刻より20分ばかり早く会場を出て、厚生棟の食堂へ向かう。朝電車に乗るときに買ったサンドイッチの食べかけをおかずにカレーを食う。どんなに建物がきれいでも、社員食堂のカレーはやはり社員食堂のカレーであった。辺りを見回すと、たまに同じテーブルで話しながら飯を食っている人々がいるが、職員だろうか。いや、明らかに受験者と思われるグループもいくつかある。同じ職場から集団受験したのだろうか。それとも試験場であっという間に仲良くなってしまったのだろうか。もしかしてこれが宇宙飛行士に必要とされる「環境適応性」や「国際的協調性」の発露であろうか、と少し不安になる。おまけに彼らのうちの一部は、参考書のようなものを開いてしかめっ面をしている。あれは何をしているのだろうか。もしかして午後の「基礎的専門試験」の対策だろうか。もしかして彼らはどんな問題が出るか事前に調べて知っているのだろうか。私は何も知らない。ますます不安になる。しかしまあ、そんなに法外に難しい問題は出ないだろうとタカをくくっておくことにした。彼らの読んでいる本の表紙を垣間見るに、「地学」と書いてある。うーん。小学校以来習った記憶ないなあ。たしか中学の時理科第二分野の範囲に入っていたような気がするが、あの時の担当の教師は生物が専門で、学期終了間際に1時間ぐらいやっただけじゃなかったっけ。まあよい。ままよ。

予想外の事態にコーヒーをがぶがぶ飲む。腹いっぱいだ。コーヒーの飲みすぎで満腹して眠くなったりするのだろうか。まあよい。席に着く。なぜか手のひらに汗をかいている。もしかして緊張しているのか。ええい。深呼吸だ深呼吸だ。すうはあすうはあ。ズボンが苦しい。太ったかな。隣に座っている男性がこっちをちらちらと見ている。緊張しているのかそれとも余裕なのか。受験者の確認がおわり問題が配られる。解答用紙を見ると一文字分のマスがいっぱい並んでいる。選択式だな。数えてみると100個ある。1個1点か。これなら何とかなるだろう。いざとなったら適当に埋めればよい(何がよいのか)。開始。隣の彼は気合を込めて一気に問題用紙の封を切る。びりびり。あっ。勢いあまって表紙を引き裂いてしまった。どうやら緊張していたようだ。スギタルハオヨバザルガゴトシ。そんなに気張るなよ。こっちはこれ見よがしに落ち着いてゆっくりと封を切る。何事も落ち着きが肝心。で、問題。ざっと全ページをめくってみる。数学・物理・化学・生物・地学。レベルは高校卒業程度だな。あるいは今はなき共通一次程度か。いずれにせよ理系の大学入試を経験した人間にはなんてことはない。ちょっと物理の配分が高いようだ。よし。数学から順番に片付けよう。数列や図形、三角関数、順列組合わせ、方程式の最大最小値、などどれもかつて一度はやったことのあるような問題ばかりだ。ええと。一題ずつ解いてゆく。おお、何とかなりそうじゃん。少し気が楽になる。さて、もう少しで数学は終わりだな。時間は、と。なに!もうこんな時間か。30分以上過ぎている。全部で120分だから、数学が終わらないうちに4分の1以上時間を使っちまった。まずい。さっきから感じていた。解き方はわかるのだが、具体的な式がなかなか出てこない。頭の中のひきだしがぎいぎい言ってなかなか開かない。くっそー。時間がない、適当に切り上げて次は物理だ。なになに滑車?これはこうで、ここはこうなるから。あー選択肢がない。もう一度。あー、あったあった。次は、えーと。うーんと。うー、なんだっけ。あーすればいいか。いや違う。と、このころから浮き足立ちまくりはじめ、次の電気回路から化学・生物・地学は完全に落ち着きを失い、問題を食い散らかして後10分というところで解答用紙は盛大な虫食い状態になってしまった。こうなったら最後の手段、とばかりに残ったマスを片っ端から「適当に」埋め、時間丁度に終了した。ふう。あと2時間あれば7割は答えられたはずなのに。参考書で勉強してたやつ、役に立ったかもなあ。わかってればやったのになあ。痛恨。でも意外にも覚えているんだなあ、と妙に感心してしまった。ああいう類の勉強をしたのは10年以上前なのに、知識の断片として頭に残ってて、寄せ集めれば何とかなるのだなあ、と。だって体心立方格子とか、面心立方格子なんて言葉聞くの大学受験以来だもん。ただ残念なことに、ひきだしがちょっと硬かったけど。

まー、冷静にみて、私はこの段階で宇宙飛行士候補者でなくなったんじゃないかと思う。残念だけど。もちろん結果を見てみないとわからないし、望みを持ちたいけど、最後の「機械的作業」が運良く功を奏していない限り無理だ無理だ無理だ。

明日の簡易医学検査、一般教養試験はせっかくだから楽しく受けようと思う。

 

 

12月3日(第一次選抜試験2日目)

朝6時、フロントからのモーニングコールで目が覚める。今日は簡易医学検査日なので朝からものを食べたり飲んだり吸ったりしてはいけないのだ。よほど注意していないと、コーヒーを飲んじゃったり、たばこを吸っちゃったりするので注意する。シャワーを浴びてさっぱりしていると、テレビでダンスセラピーの話をやっている。踊ることで心を解放して病を治すらしい。ダンスセラピストの女性は、高校時代単身アメリカに渡り、大学で心理学を専攻中にダンサーとしてショウのオーディションに受かったものの、練習中に股関節を脱臼してしまい、すべてがぱあになって落ち込んでいたときに病院で両足が義足の少年に "At least you're living" といわれて感動して立ち直り、今の道を志すようになったそうだ。ううむ。実に "Life finds a way" な話しだなあ。素晴らしい。

7時30分、呼んでおいたタクシーに乗って、筑波メディカルセンターへ向かう。10分ほどで着いたが、2千円以上かかった。ここ筑波では、東京あたりとタクシーに乗ったときの感覚がかなり違う。普段タクシーに乗って2千円以上払うのは、乗車時間にして大体20〜30分程度であろう。すいすい走ってしまうので、時間よりも距離で加算されてしまうのだ。わかってはいるが、なんか損した気分だ。というわけで、指定された8時よりもかなり早く着いてしまったのだが、それにあわせてNASDAも受け付けを早く始めてくれた。役所らしからぬ対応に感謝。受付を済ませると、更衣室に行って浴衣のようなちんちくりんの検査着に着替える。検尿をした後、本格的に検査が始まるまでしばしテレビを見る。麻原がまたも横田弁護士を解任したというばかばかしいニュースと、大田区で頭のおかしい強盗が幼児を人質に一軒家に立てこもり、警察の勇気あふれる突入によって解決したというニュースだった。なんだかなあ。

時間が来て3階に上がり、まず心電図をとった。体の何ヶ所かをアルコールか何かで拭かれ、クリップのような電極を3個と、吸盤のような電極を4個ぐらい付け、測定開始。ぴっぴっという規則的な電子音がするが、あれが私の鼓動であろうか。規則的なものだ。あたりまえか。あっさり終わって、次は採血をした。どっちの腕でもよいと言うので、利き腕でない左腕を差し出すが、看護婦は私の左腕のひじの裏の部分から静脈を発見できず断念。右腕から採血する。空っぽの注射器をぷすっと刺すと、血液が湧き水のようにあふれ出す。それを用意してある4本のシリンダに次々に汲み上げる。朝から何も食べてない上に血まで取られて、初潮を迎えた小学生のように貧血ぎみな気分だ。聴力検査では防音室に閉じこめられて、音が聞こえたらボタンを押すというのを右左3種類の周波数で行う。応募書類を提出するときに行った健康診断のほうがもっと精密だった。そして超音波による腹部検査。前の人に呼ばれてドアを開けると、薄暗い部屋の中で男性がベッドを前に手招きをする。なんか変な気分。言われた通りベッドに横たわり検査着の前を開けると、たくましい手で私の腹部にぬるぬるとしたローションを塗りたくり、おもむろに固くて大きいものを押し付けた。彼はそれを、時に早く浅く、そして時に深くゆっくりと巧みに操り、私の内部をまさぐるのだった。そして次に、私を横向きにして後ろからさらに攻めたてた。すべてが終わると彼は固くて大きなものをしまい、タオルのようなもので私のすっかりぬめぬめになってしまった腹部を事務的にごしごしと拭いた。いかん、日経の読みすぎだ(笑)。水族館のトドやアザラシ、あるいは魚河岸のマグロの気持ちがちょっとだけわかった。

視力検査はバーチャボーイにジョイスティックをつけたようなもので測った。自信はあったが、まさか両目とも1.5がでるとは。現代人、しかもコンピュータを生業とするものにあるまじき視力である。血圧は普通のスポーツセンターなんかにおいてあるのと変わりない。でもいつもより心拍数がかなり低かったな。身長体重はSF映画に出てきそうな身長計(なんだそれは)で、乗るだけで自動的に身長体重を一気に測ってくれる。両足の裏を完全に接地させないと動作しないようなのでいんちきは不可能。身長が1センチくらい伸びていた。筑波宇宙センターできっと重力制御の実験をやっていたに違いない。体重は見忘れたが、きっと2割ぐらい少ないはずだ。秘密裏に実験をやっているつもりでも、こういうところでばれるんだよ。同じ場所で心肺機能を検査した。コードつきのトイレットペーパーの芯のようなものを口にくわえて全力で息を吸って吐く。人によっては狂った演歌歌手がこぶしをきかせてサビを熱唱しているようにも見える。一見の価値あり。眼底撮影では全開の目に対して強烈なストロボ光を浴びせるというあまりに非人道的な行いにグリーンピースが出動する騒ぎがあった。うそ。でもしばらくは見るものすべてに真円のグリーンのぼかしがかかってしまい、普段なら鼻血ブーの無修正ビデオすら何ら価値を持たない状態に陥り、一同パニック状態。さらに眼圧検査では、これまた全開の目に対して弾なしのエアガンを発砲するというあまりに非人道的な行いにグリーンピースが出動する騒ぎがあった。うそ。まあ一連の仕打ちを乗り越えて、志願者間の結束はいよいよ固まったのであった。

着替えおわって、しばらくくつろいでいると、バスがやってきたので宇宙センターに戻り、昨日と同じ厚生棟の食堂で、今度は定食を食べる。トンカツだった。なぜか冷えていた。冷やしカツというメニューだったのだろうか。簡易医学検査のときに話をしていた検査番号60の男性と同じテーブルにつく。彼は、普段も仕事でNASDAに来ることが多く、そういう時の定食の値段は400円で、今日は200円も高くてばからしいと言ってカレーを食っていた。

さて、午後は一般教養試験である。午前中少し親しくなった、隣に座っている彼が話しかけてきたので、どんな問題が出るんですかね、やっぱり社会なんかですかね、などと話す。今度は表紙を破らないようにしなきゃ、と彼が言った。またしても受験者の確認を行う。写真と見比べられるのはいつまでたっても変な気分だ。試験が始まる。隣の彼は今回は慎重に封を切り、満足そうだ。ざっと全ページを見てみる。やはり予想通り社会や国語の問題のようだが、後半に変な問題がずらっと並んでいる。えーと。なに。画家、後期印象派の特徴?心理学者の分類?日本の文学者の作品と留学先の組合わせ?なんだか一般人むけのア・テストみたいだなあ。まあよい。こっちはもう開き直っているんだ。どっからでもかかってきなさい。というわけで、絶対これだ!と確信できる解答になかなか巡り合えないまま、勘と、解答の違和感のなさだけを基準にがんがん進む。ベルリンの壁の崩壊?うーん。1990年!東西冷戦構造終結が宣言された会議が開かれた場所と出席者は?うーん。マルタ、ブッシュ、ゴルバチョフ。てな感じですべて選択式であるのをいいことに雰囲気で解答を選んでゆく。自分でも合っているような気になってしまうから恐ろしい。おかげで約45分を残して、つまり半分の時間で全部終了してしまった。いくら慎重に見直したところで、今書いてある解答以外の選択肢が選べる理由がまったくないので、そのまま睡眠に入る。ちょっと不謹慎だったかな。

時間が来て終了の声がかかる。さてさてすべて終わった。あーあ。念入りに準備することができれば、少なくとも一次審査は突破したのになあ。まったく残念だ。でもおもしろい経験だったなあ。などと一人で回想モードに入っていると、「お知らせがあります。」の声が。二次審査の日程として1月後半から3つのオプションを用意してあるので、希望する日程を知らせてください。昨日配った紙に記入して帰るときに出すか、15日までに返送してください。と言われてもなあ。1月後半の2週は、ちょうどJAISTの試験日にひっかかってるもんなあ。どうせ二次審査は関係ないから2月の第1週を第一希望にして後は適当に書いておけばいいのに、無意識の未練が私をそうさせてくれなかった。なんてあきらめが悪いんだ。ぶつぶつ。

さて解散か、と思っていると、「それでは、当事業団有人宇宙活動推進室長、毛利衛からごあいさつがあります。」おお!すごい!毛利さんが直々に!考えてみれば驚くほどのことではないのだが、みんな「その気」になっているので熱い。会場がどよめき、我らがヒーロー毛利さんを見つける。その瞬間から彼が演台に立ち、最後の一言を言い終えて会場を後にするまで、目は完全に釘付け金縛り状態だった。感激していた。30にもなって。

そしてその後会場を出ると、毛利さんが見送りのために待っていてくれた。ミーハーだと思いつつも握手をしてもらわずにはおれなかった。言葉がつまって何も言えなかったが、固くしっかりした手がすべてを語っていた。「あの」毛利さんが、元宇宙飛行士としての公式な仕事の一環として、我々のためにわざわざ!でも、そう、今を去ること10年前、毛利さんも、向井さん土井さんと一緒に、今の我々と同じように選抜試験を受け、それをくぐりぬけて宇宙に行ったんだ。この事実は私にとって実に感動的である。そしてこの意味において、私は永年夢見てきた宇宙飛行士という仕事と一瞬、しかもニアミスだったかもしれないが交わることができたのである。ミーハー根性といえばそれまでだが、自分から「探しに行く」という姿勢は、こんな感動を生むのだ。たとえそれが徒労に終わっても、あの一瞬輝いた光は決して忘れることはないだろう。毛利さんは言った。「できれば今後隔年で宇宙飛行士を募集したい。」よし。それでは受けようじゃないか。毎回毎回。いつか宇宙に行ける日まで。


 

原口良胤(はらぐち・よしつぐ)
1995年12月14日作成 1996年11月 25日更新
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混沌と混乱と狂熱

おれと一緒に行くのは混沌と混乱のみで狂熱はない。

3年前の友人に何があったかも分からないまま、そしてこれから企んでいる企画がどうなるかも分からないまま、現在という点Pは秒速1秒あるいは時速3600秒で進んでいく。こういうときビジョンが重要だとされるが、それはまあ同意するにしても、点Pにおける自身の心身こそがもっとも大事である。たとえ紙に書いた立派なビジョンがあろうが、心身に不調を来していればそれを破り捨てるかもしれないし、高いところからダイブするかもしれないし、1ヶ月寝込むかもしれない。

そうならないためにはまず点Pに立つ自身を安定させることだ。冒険という究極的に不安定な活動に身を投じるためには自身まで不安定ではならない。不安定な活動をする主体は最大限に安定している必要がある。加齢に伴って肉体のあちこちにガタが来るのは不可避だが睡眠と栄養まで不十分だとまともな活動は覚束ない。しかしそのどちらも自分にとっては難しいものになった。ホルモンのせいか睡眠が浅く短い。減量を継続している(つもり)なので、摂取カロリーが少なめな上にバランスを取るのがむずかしい。

調子が良いときは躁状態であるかのような無敵感、悪いときは抑うつ状態であるかのような終末感。躁鬱病あるいは双極性障害といわれるものの振幅を縮小したような脈動が週単位である。想像は付く。躁っぽい時の行い、主に過食と短睡眠と浪費、の副作用が1週間の位相遅れで襲来して鬱っぽくなるのだろう。これでは安定は望めない。良い音楽は安定したテンポの上にのみ紡がれる(除現代音楽)のだ。

日中に眠気を感じなくとも睡眠不足によって情緒が不安定だったり思考が雑になったりすることはある。それをセルフモニタリングすることは可能だが、異常を検知しても即効性のある解決方法はない。その場をやり過ごして美味しいものを食べて早めに寝るぐらいだ。途中で覚醒しても無理やり9時間ぐらい寝る。個人的には牛肉と茶色いパンとフルーツを食べると満足度が高い。なんと凡庸な結論。

ただアウトプットを面白くするために自分自身の頭が3個あったり腕が12本あったりする必要はなく、平凡な肉体と頭脳を巧みに使えばよい。

なんと凡庸な結論。

Star Shipが照らす、選択の連続と人生の後悔

ある映像を見てひどく憂鬱な気分に陥ってしまった。

Star Shipは試験で宇宙空間に到達後、プラズマの炎に包まれながら重要な使命を終えて行った。乱れていく映像の中の巨大な銀色の宇宙船は美しかった。

3歳の時にTVでアポロ11号の月面着陸の映像を見た。その当時の子供向けの雑誌にはサターンⅤ型ロケットや月着陸船や連絡船の紙工作の付録があり、歪な出来ながらも作った記憶がある。当時の宇宙ブームは子供向けの特撮番組にも影響を与え、宇宙に進出することこそが未来だと信じ憧れた。

その後、月面車やスカイラブ、アポロ・ソユーズなどを経て、高校2年になった頃、まるでSF映画のようなスペースシャトルが飛び立った。TV中継で見た、衝撃吸収のために大量に放水される中、点火されたエンジンから噴射されたガスが徐々に速度を上げ、プラズマ化して見たことがないような速度に達してスペースシャトルを押し上げていく姿に鳥肌が立った。これが未来だと思った。これに携わる仕事をしたいと望んだ。

だがそのために進学しようと思った大学には落第した。別の大学で別の生き方を選んだ。在学中に日本人の宇宙飛行士が3人選ばれて、日本人にも可能性があると知った。

バブル期の売り手市場で就職した会社は素晴らしい会社ではあったが、自分には苦しかった。退職した年に、2回目の宇宙飛行士の募集があった。幸い条件に適合していたので応募して書類選考も通過して試験を受けたがダメだった。そして情報系の大学院に進学した。

その後いろいろあった30年近くを経て、さっきStar Shipの映像を見た。自分が選べなかった世界の輝かしい現在がそこにあった。自分の選択や行動が導いた現在について不満があるわけではない。力不足だったり逃避した結果としての冴えない現在だが、家族や友人にも恵まれて受け入れているつもりだった。だがあの映像を見て強烈に「俺は一度きりの人生を台無しにした」と感じてしまった。今の体調や心理状況も一因だろうが、自分はあの輪の中にいられなかったことを惨めに感じた。世界や日本に煌めく多数の成功者のどれでなくてもいいが、末席でもいいからあの世界にいたかった。

小さな選択の連続だった。一つ誤っても次の一つで近づけたかもしれない。目的地さえ見失わなければ、足元の一つの選択ミスは挽回できる。でも自分は1つの目的地を見続けられず、あちこち寄り道をし、珍しい物や楽しそうな物に心を奪われてしまった。頂上を目指して厳しい登山をするつもりだったのが、ただ楽しくキャンプをしただけだった。

結局、自分はこうしか生きられなかったのだ。それを達成するだけの能力があったとも思えない。あらゆる物語はハッピーエンドではない。不幸な古い友人を失ってそんな感想を抱いていたが、他人事ではなく自分も同じだった。訂正可能性は常に残されてはいるだろうが、全てがオセロのようにひっくり返せるわけではないし、オセロですら裏返せない石がどっさり残ることはある。そんな後悔がずっしりある。到達できなかったことよりも、目指し続けられなかった自分が今心底残念だ。

いずれ自分が死に際して今までの人生をハッピーエンドにひっくり返せるような、そんなたった一つの冴えたやり方なんてものは現実には存在しないという、日常に浮かれていた脳に浴びせられた冷や水のような映像だった。それだけの高みがあった。痛みがあった。

承認欲求という言葉がある。他者からのものは別に望まないが、自分を自分で承認したい欲求ならある。そしてそれはいつまで経っても満たされないだろう。

不意に昔見た「遠い空の向こうに」という映画を思い出した。子育て真っ盛りだったあの時も自分は真っ黒になって地下へ沈んでいく父親かもなと思ったものだった。

 

なお、タイトルははてなのAIがいまいちなのでClaude-3に付けてもらったが大げさだ。

いろんなことが同時に動いている

そのせいで最終的にどういう絵柄になるのか想像しにくい。ウルトラセブンのタイトルバックでランダムな色模様が回転しながら明瞭な文字に変化するように、こちらも混沌から明瞭な絵柄にフォーカスしていくといいのだが。

もっとも望ましい形は錦糸町の部屋は10Gb光を引いた錦糸町ラボとして維持し、それ以外に市ヶ尾に追加で1つテナントを借り増しすることだ。元々あった事務所は整理してオフィス兼クローズド会議室兼倉庫として使う。借り増ししたテナントはアルファードコアとして人々が交流する基盤とする。そしてちゃんと収益事業化する。これが第1案。

だがそれだと固定費がそれなりにかかってしまうので、一旦錦糸町ラボを閉鎖し、市ヶ尾の2つのテナントに集中するのが第2案。こちらは合理的ではあるが都内テックコミュニティへアプローチするための飛び道具という強みを失う。

第3案は、現在のオフィスを大幅整理してその備品を錦糸町市ヶ尾の新テナントに分散配置する。だがこれはこれで使い勝手はあまり良くない。できれば錦糸町ラボは身軽にしておきたい。

ということでやっぱり目指すべきは第1案で早めにブレークイーブンを超えて成立させることだが、収益事業を目指すとは言っても基本がコミュニティスペースだから急成長するようなものでもなく、複数の事業を組み合わせたポートフォリオを作るしかなかろう。そこはキモの部分なのでこれから煮詰めていく。また錦糸町ラボも今のところ何も生み出していないので多少でも収益化したい。

なんて現実的なことを考えているととりあえず気は紛れる。