最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

人生はゲームか?

「人生はゲームではない」という一節を読んだ。私が応援しているある作家のコラムだ。その通りだと思う。だが昔からずっとそう思っていたかというと、そうではない。ある時期までまちがいなく人生はゲームみたいなもんだと思っていた。

ではいつ変わったか?思い返すとそれは1997年、31の時だ。長男が生まれるその分娩台の横で、母が悪性関節リウマチに倒れて吐血し「ヒロアキちゃんに会いたい」と叫んで意識不明になったと連絡を受けた時だ。そのきっかり半年後、一度も意識が戻らないまま、皮肉にも敬老の日に母は74で他界した。肉親の生と死、それまで経験したことのない喜びと悲しみを同時に喰らって混乱した。死までの6ヶ月間は当時在籍していた大学院大学での学習・研究活動も、ただでさえ7年ぶりの学生生活で混乱していたのに、日々がますます混沌として意欲も低迷し留年することになった。

大学院大学のある石川に行くまでは、横浜の両親の家に夫婦で同居していた。24歳のときに結婚した1歳下の妻は母と不思議と仲が良く、目立った問題はなかった。しかし、当の私がそれまで勤務していた金融系大手SI企業での開発案件で今でいうデスマの試練に遭遇し、肉体的にも精神的にも追い詰められていた。昼も夜も土日も祝日も関係なく、ひたすら会社と客先に行き、自宅には数日に一度戻るだけの生活を1年ほど続けていた。完全フレックス制に変わったばかりで残業計算は意味がなくなっていたが、あえて計算するなら、24*31-6*10-8*20ぐらいの数式で計算できる。休日含めて1ヶ月500時間ぐらいか。久しぶりに帰宅したときの寝言で「それはオラクルのバグだ!」と叫んでいたと父から聞かされたこともあったし、何度となく見た朝焼けに染まるベイブリッジに向かって飛び出したくなったこともあり、いろいろ限界を感じた。

リリース後の混沌とした期間を経て、半年分溜まっていた振替休日・有給休暇を消化をして退職した。こんなポンコツでも辞めるときにはちゃんと送別会もしてくれてありがたかった。当時の自分は、知識も能力も不足していたのがあのプロジェクトで苦労した原因だと信じていたので、殊勝にも基礎からしっかり学ばないと今後また同じことを繰り返してしまうと思い、コンピュータサイエンスで有名な米国大学院に進学しようと、念のため御茶ノ水の英語学校TOEFL550点コースに通い609点を取って渡米した。西海岸の有名どころを何校か見にいったが学部時代のGPAの低さと長い準備期間が必要そうなのが原因で断念した。もし無理やりでも入っていたらG社の設立に立ち会えてウハウハだったかもと想像したりする。そして、ちょうど結果待ちだったNASDAの宇宙飛行士試験は合格の連絡が来なかったので、結局国内の大学院に進学することにした。だが時期が遅すぎて選択肢は1つしかなかった。面接試験で英語では試験官を驚かせたが、研究内容についてはトンチンカンな奴だと思われたはずだ。当時のレベルで比喩の解析なんて無謀。でも無事に合格して石川に住むことになった。

志望の米国大学ではなくて残念だったが、石川はとても良いところだったし講義はおもしろかった。中学生の頃から好きだったコンピュータについての色々な謎がじわじわ明らかになっていくのが楽しかった。7~8歳年下の友人もできて、彼らから当時話題の漫画やアニメなどを教えてもらった。新世紀エヴァンゲリオンの録画を借りて衝撃を受けたりジョジョを読んだのもこの年だった。多少の蓄えはあったから、仮にうまくいかなくなってもカルチャースクールだと思えばいいやと思っていたし、修了できたらどこか大手のIT企業に就職すればいいし、もし力があれば博士後期課程に進めたらいいなぐらいの、まさにゲーム感覚だった。

そういう訳で1996年は色々なことを終了させ、新しいことを学び始めた年だった。ちょうど30歳。そしたらストレスフルな環境から自然豊かな環境に変わったせいか、すぐに子供ができた。既にそういうつもりでいたから驚きはしなかったが、そこから生活の前提が徐々に変化し始めた。子供は横浜ではなく広々とした石川で生むことにした。里離れ出産だと笑っていた。修了後のことについてなぜか不安はなかった。母はリウマチが悪化して手術と入退院を繰り返しており、そちらの状況は心配だったが父が全身全霊で対応していたので完全に任せていた。

年末にはブリや甘海老やカニをたくさん買って横浜に戻って皆で食べたが、その時点で母は少し意識が朦朧とする瞬間があったようだった。母と過ごすことができた最後の年末だった。正月が明けると母はまた病院に戻っていった。

3月の予定日が近づいてくると出産育児のために色んな物の購入や準備で忙しくなったが、一方ではのんびりした石川での生活を楽しんでいた。近くのきときとという回転寿司にはよく通った。苦手だった魚介類が好きになれたのは石川の安くて新鮮でうまい魚介類のおかげだ。

松任の病院で出産に立ち会った。それはそれは大変な時間だった。そして分娩直後のまだ全身が紫色なままの赤ん坊を抱いている妻の横で看護師からコードレスホンを渡された。父だった。今生まれたよと言ったら、母が「ヒロアキちゃんに会いたい」と3回言ったあと吐血して意識不明になった言われた。子供を召喚する呪文か!とは当時思わなかったがまるで入れ替わりだ。

出産後、妻は多少苦労したが無事に退院した。そしてそれから田んぼの真ん中みたいなアパートで0才児の育児が始まった。オムツ替え入浴食事寝かしつけ散歩夜泣き対応、一通り全部やった。元来子供は苦手だったが自分の子は別だった。かわいさも憎らしさもあったがそれ以上におもしろかった。自分が選んだ研究室は人工知能の適用分野の1つである自然言語処理学講座で、人工知能を学んだり自然言語処理輪講や読書会をしたり研究準備をしていたのだった。そこに突然現れたゼロ知識の完全自然知能。しかも小さくて未熟ながら完全かつぐんぐん成長する肉体を持っていて、自発的に乳を飲んだりげろを吐いたり排泄したり寝返りをうったり夜泣きしたり笑ったりはいはいしたり物を見たり声をだしたり耳をそばだてたりする。人工知能とどっちがおもしろい???

でも人工知能と違ってこちらは放っておくと簡単に死ぬ。それはもうあっけないぐらい簡単に。寝返りに気づかないだけで死んだりする。と同時に意外と丈夫でもある。不思議だしおもしろい。そしてこの小さくて不完全で脆弱な生き物をまずは死なせず、できれば健康に育てる、それこそが初めて直面した真の意味での「責任」というものだった。この赤ん坊は100%全面的に母と父に頼って生きていて、私達の振る舞い一つで生命を失う。そして二度と取り戻せない。自己責任など一切問えない。親の責任しかない。かくして自分の人生ももはやゲームではなくなった。今までは100%自分のために生きてきたが、これからは違う。少なくとも当分は子供の生命こそが主であり、自分の生命は従となった。まさにゲームチェンジ、コペルニクス的転回、パラダイムシフトなんでもいいが、とにかく天と地がひっくり返った。

そこから半年して母が召天し親も片方失った。自分はずっと「こっち側」だったが、片足だけ残してもうほとんど「あっち側」に行ってしまった。takeする側からgiveする側と言ってもいい。ゲームをプレイする側から、ゲームを提供する側と言ってもいい。3年後には次男も生まれ、保育園の保護者会とか小学校のPTAとか中高の保護者会とかですっかり親としての自分、ゲームプレイヤーではなくゲームの場を提供する者として否応なく成長させられていまの自分になった。

母が逝って20年後つまり6年前に父も召天し、今や完全に「こっち側」つまり30歳当時で言うところの「あっち側」に来てしまった自分が、すでに20代も半ばになった子供たちを見ていると、彼らはいままさにゲームのプレイヤーとしての人生真っ最中である。

しかし世の中はゲームで人生を喩えられるような環境ばかりではないのは、冒頭の作家の言葉通りだ。ゲームをプレイしているだけと信じている当事者は、あくまでその場を提供した存在を透明化しているだけであって、提供者は動かし難く実在しているし、その外側にはさらにオープンで厳しい空間が幾重にも存在しており、それらは誰かによって保守管理されていて、それらから無自覚に守られているだけだ。

だから今、自分が「人生はゲームではない」と言い切れるのは、それだけの経験あってのことであって、そういう経験を持たない人が「人生はゲームだ」ということに不思議はない。むしろ自分は今この段階でこそ「とはいえ人生はゲームだ」と嘯けるぐらいの精神を持ちたいとすら思っている。