最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

満ち満ちていた未知の道

小学校4年生ぐらいに父の友人(正確には違うが)からもらった中古のラジコンエンジンカーをきっかけに雑誌「ラジコン技術」を読み始めた。そこには手の届かないような高価で高性能なラジコンカーやとても飛ばせるとは思えないラジコン飛行機やヘリコプター、どこで遊べばいいか分からないラジコンボートなどの広告がキラキラと光を放って掲載されていた。それだけでなく記事の内容も小学生にとっては高度なので、分からないなりに何回も読んでなんとなく分かるようになった。水陸両用の京商のアンフィバギーとか、大型エンジンを搭載しバックが可能な松下電工のキャットバギー、石政のラットバギー、フタバのサファリバギーなどどれも魅力的だった。エンジンに目を向けると、エンヤ、O.S. が2大巨頭で、ハイネスというダークホースも登場した。いずれも手が届かない、雑誌を通してしか知ることのできない未知の世界だった。

男子校の中学に進学した時、合格祝いで祖父が一眼レフカメラを買ってくれた。Canon A-1という機種だ。小学校2年生ぐらいからKodakの110カメラで写真を撮りまくっていたので、その延長上だった。どの機種にするかずいぶん悩んだ。本屋で手当たり次第に雑誌を立ち読みして「アサヒカメラ」という雑誌を選んだ。それとカタログを眺めてはA-1がいかにすごいカメラかを確認し、露出の調整方法や焦点距離など操作方法の基本や周辺アクセサリなどについても学んだ。実際にカメラを手にしてからはキャノンサークルに加入して会報を購読した。そこには多くのアマチュアカメラマンの作品が並び、プロの講評も掲載されていた。自分もバカみたいに写真を撮りまくったが、当時は現像してプリントするたびに36枚で3,000円とかかかる今思えば高価な趣味だった。おまけに自分で撮る写真には当然自分は写っていないので、その頃の自分の写真は父が撮影した何枚かしか残っていない。そして当然その延長線上には自宅でカラー現像をし写真を焼くという目標がそびえているが、それはかなり高度なものに思えた。カラー現像セットの広告を見て比較などしていたが、結局それは果たされなかった。

進学と同時にブラスバンド部に入った。以前から音楽は好きで幼稚園時代には1年ぐらいピアノを習っていたし、TV番組は特撮もアニメもドラマも内容よりも音楽ばかり楽しみにしていた。TVの映画番組枠のエンディングで聞いた曲や、CMで聞いた曲がどうしても気になり、当時はメロディーが分かったからといって調べる方法がないので、母や叔母にレコード屋に連れて行ってもらい説明した結果、それらはそれぞれホルストの惑星組曲の「木星」と、ベートーヴェンのロマンス第2番だということが分かり、レコードを買ってきて聞いた。だが当時の自宅のステレオは古く、音が今ひとつだったのでFMラジオを聞いていた気がする。でもいずれも生演奏を聞く機会はなく、毎日通っていた本屋で見つけた「レコード芸術」という雑誌を毎月読んでは世界のオーケストラや指揮者やピアニスト、バイオリニストなどを学んだ。部活で演奏する吹奏楽曲もいいが、オーケストラに憧れた。2年生のとき友人と飛び込みでNHKホールに行き、よくわからないままチケットを買ったら最前列だった。オトマール・スウィトナーNHK交響楽団の、たしかチャイコフスキーだった。初めてのオーケストラ体験は圧倒的なものだった。すごすぎて脳が飽和した。いつか自分もオーケストラに参加したいと思うようになったが、しばらくの間はレコード芸術とたまに行くコンサートだけが接点だった。

中学校2年生になったころ、母の教え子の3つぐらい上のお兄さんから世の中にはマイコンというものがあると教わり、早速本屋に行って「月刊アスキー」、「RAM」、「I/O」などを読み比べて「月刊アスキー」を毎月読むことにした。電子工作とマイコンを接続してレーザープロッタを作る記事なんかを読んで凄さに圧倒された。そしてちょうどこれからNECPC-8001が発売されるぞ、という時期で特集が組まれていた。ひたすらPC-8001のスペックや機能やBASICの文法を読み漁った。NECにはTK-80やそれをケースに入れたTK-80BSがあり、一方シャープにはMZ-80Kというキットがあった。海外に目を転じると、CommodoreのPET、Tandy Radio ShackのTRS-80、そして燦然と輝く AppleIIが雑誌の広告で輝いていた。PETはある意味未来的でSFに出てきそうなデザイン、TRS-80は渋いカラー、そして6502を採用したAppleIIは美しいクリーム色と滑らかなデザインに6色のリンゴマークが目を引いた。若いスティーブ・ジョブスが眩しくヒーローだった。今ならただのキーボードにしか見えないが、MicrosoftのBASICインタプリタを搭載しているものが多かった。だがそれら実物は秋葉原や渋谷の西武百貨店なんかに行ってやっと触れるぐらいで、そのために休日を潰して友達と一緒に朝から晩までBit-INNのPC-8001の前に座り込んでプログラムを打ち込んだりデバッグしていた。とはいえ、AppleIIに触れる機会はまったくなく、渋谷の西武で同じ歳ぐらいの少年が砲弾を撃つゲームみたいなのをいじってるのを遠巻きに眺めるだけで、未知の世界だった。

高校も後半になるころ、自分はオートバイの免許が取れる年齢になっていたことに気づいた。当然だが自分の通っていた高校ではバイクの免許取得は許可されていなかったから、それに気づいて以来、オートバイの雑誌を買ってはいろんなバイクを羨ましく眺めていた。当時の自分はとにかく1人で遠くに行きたい気持ちが相当高まっていたので、デザインよりも燃費が良くて無駄な装飾のない速くて遠くまで走れるバイクを探していた。しかし当然ながら高校時代も受験に失敗した浪人時代も望みを叶えることはできず、大学進学以降へと持ち越した。

そうやって多くのことは月刊の雑誌から学んだので、実物は手の届かない遠い場所にあった。そしてそれらはどれも10代の自分にとってはきっと本物以上に輝いていた。どれも実際に手にした時は本当にうれしく、生涯の友になったけれど、雑誌で見ていた時に想像していた魔法のようななにかとはちょっと違った。いやたぶんその想像を超えた素晴らしい世界だったのは間違いないが、10代の想像力が夢見ていたあのクオリアとは異なるものだった。むしろそのクオリアは想像だけの頃の方が輝いていたと言える。実物には実物なりの制限や不自由さがあり、進歩したり老いることによって爆発的に得られたものもあれば失われたものもある。それは良い悪いではなく、単に変化しただけだ。

ただ、最近時々、雑誌でしか触れることができなかった時代に自分の脳内で生み出していた世界が恋しくなることがある。その断片を頭の隅っこに発見したり、ネットの情報に当時の断片が見つかったりすると、甘酸っぱい気持ちが蘇る。これからまたそういう経験をする機会はあるのだろうか。未知への憧憬が。