最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

不自由からの逃走

自分が自由になることを遠ざけているもの達は、同時に自分を守ってくれている。危険で不安定な外の世界との直接接触を恐れて身に纏ったよろいは、自分を拘束し、自由に活動することを妨げている。そして長年よろいを着ているといつの間にかそれが体の一部となってしまい、本来の肉体はいろいろな意味で変質してしまっている。


その重さに慣れてしまっている。だから脱いでも速く走れる気がしない。その丈夫さに慣れてしまっている。だから脱ぐと外部からの刺激が苦痛だ。そしてなにより、着ていることが当然だと思っていたものを脱ぐのだから、不安に苛まれる。自分は生身で世界と対峙していけるのか。本当に大丈夫なのか。


その不安を抜本的に解決するには、少しずつ少しずつきちんと裸で世界と組み合って体を慣らすしかない。体表は圧力や衝撃に晒され傷つくが、時が経てば自己修復される。そのプロセスを何度も繰り返して、世界とフルコンタクトの真剣勝負を続けない限り、結局また別のよろいを探してきて身につけてしまうのが人間なのだ。よろいを身につけずに世界と渡り合えるものは幸いである。殆どの人が不可能であるがゆえに不自由を我慢している。


だがある年齢に達したら、すっかり体に馴染んでしまった愛着のあるそのよろい(あるいはライナスの毛布とも言える)を一旦脱ぎ捨てて、世界とフルコンタクトの真剣勝負をしてみるのが、生きることの醍醐味なのかもしれない。だってどんなに守っていてもいずれ死ぬんだから。それだったら、ツルツルピカピカのきれいな体で死ぬのではなく、全身傷だらけのボロボロになって、肉体すべてを使い尽くして死にたいものだ。