最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

暗い話

`ここ10年の間に以前から親しくしていた友人が何人も病に倒れたり亡くなったりした。理由は分かるものもあれば分からないものもある。ただ自分にとって友人とは、たとえそれが幼稚園時代の人でも、一過性の、つまりフローの存在ではなくストックであって、自分の一部を形成していると言ってもいい。だからそういう報せを受け取るたびに体の一部がもがれたような気分を味わうことになる。そうやって一緒に傷付きながら時間を過ごしていく。

歳をとるというのはつまり、未来がどんどんなくなっていくことだ。その事実を直視しながらなおも立ち止まることができないまま、時間に背中を押され続けて断崖絶壁に近づいていく。明るい未来にこそ希望を見ていた人間にとっては文字通り絶望というしかなく、おまけに、今まで共に歩んできた大事な友人がいつの間にか自分の隣からいなくなっている。この先に一体どんな豊かな未来があるというのか。

未来は自分で作り出すものという意見は実に力強くて魅力的だ。ただその意見に魅力を感じる人間すべてにとって作り出せるものでもない。もちろん自分が影響できる範囲に限ってはその可能性はあるだろうが、それが常に思い通りの未来になるわけではない。無数のパラメータのどれかが重要なのだろうが、それは事前にはわからない。思い通りにいかなくて失敗もするだろうし、少なくとも病に臥したりこの世を去ってしまった友人との未来はもう存在しない。

そして友人を失う経験はこれが最後なわけではなく、今後むしろ加速していく。親戚もまた高齢化している。順番通りであれば今後自分が生きている間に大半を失うだろう。知らぬ間に病が蓄積してしまった自分は順序破りをしそうに思うが、病んだまま長生きするという皮肉な晩年が待っている嫌な気もする。

それでも自分にとって一番の親友は配偶者で、彼女の生命力の強さはその母や祖母を見てきたので疑いがない。ただ比較的危険度の高い海外に訪れる機会が多いので期待値的には相殺されてしまっている気もするが。とはいえ彼女の類稀なる自己管理能力のおかげでストレスを最小限にしながらパフォーマンスを最大化することに成功しているから、きっと長生きしてくれるだろう。

どんどん既存の人間関係の幅が狭まっていく中で、新たな人間関係が生まれていく気配もないではない。ただそれを広げるにはかなり「頑張る」必要はある。それはつまり、今までやってきたことは消化して血肉になったと信じて捨て、今までやったことのないことを勇気をもって次々にやることだ。今まで接したことのない人々や環境と接し、偶然に身を委ね、年齢なりの狡知をもって負けにくい博打を打つことだ。そんな大変なことができるのか。そもそも体力が必要なのは言うまでもない。

やったことがないことをやるのは言うほど難しいことではない。ただ一回だけなら。それを今までの自分の仕事や家庭生活のように続けることは難しい。なぜなら今までそれをやったことがなかったのはそれなりの理由があるはずだから。安易に飛び込んでちょっと上手くいったとしても年単位で続けようとすると苦しくなるだろう。だから次の世代へとハンドオーバーすることも視野に入れながら始めない限り、持続可能なものにはならない。そして自分がもはや存在しないその未来に託せるか。「信じる」という言葉の真の意味が問われる。自分が生きていて相手も生きている、そんな状況で相手の行動を「信じる」、言葉を「信じる」のは言葉の綾であって、ただの確率的な事象を観察するときの態度にすぎない。結果を見れば自分の「信じた」ことの正否が確定するからだ。科学の実験のようなものだ。だが、自分が死んだ後のことについては確認しようがない。自分が存在しない開放された未来に向かって自分の信念を投機できるか。検証できないのだからこれは科学ではなく宗教だ。つまり信じるかどうかしかない。

できると信じるにしても、単に意志を持って選択するだけの行為であって、その背後に合理的な何かなどない。自分が死んだ瞬間に世界が消滅するというのはある意味真実だが、そのさらに向こうに、つまり自分を超えた何かがちゃんと存在してくれていると信じられるか?それこそが問われる。

残り時間が少ないとわかっている時点で何か新しいことを始めるのは、つまりそういう信念を自分が持てるかという問いにYesと答えることに他ならない。凡庸なまま何も残さずにこの世を去るか、凡庸だが多少はプラスあるいは最悪マイナスになるものをこの世に残して去るか。結局それは過去の事例や統計から導き出される「予想」ではなく、自分が何を信じるか以外に判断基準はない。