最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

肉体の再生

ここ10年ほどの自分のテーマは「肉体の再生」とか「身体性」と言えるものだ。それには2つの意味が含まれている。1つは自分の知的関心の対象としてのもの。つまり、バーチャルワールド内のみで発達してきたコンピューティングパワーに物理的実体を持たせるという意味だ。


自分の思考実験による勝手な結論によると、知性は最終的にはいわゆる「現実世界」という地面に接地される必要がある。あらゆるプリミティブな言葉の「意味」は、個人のもつ「現実世界」への写像である。どんな抽象的な概念であれ、それが言語で表現されうる限り、それらはより低次の言葉によって再構成することが可能で、それらは最終的には「現実世界」と接続している。だから、そう、だからこそ、知性は究極的には肉体の持つ五感や、力学的作用力つまり筋力に還元されるのだ。つまり、知と肉体は相互補完的であって、片方だけをいくら強化しても、全体の性能アップにはつながらないのだ。いや、それどころかバランスを欠いた強化はかえって総体としての性能を低下させる。


もう1つの意味はより個人的なものだ。コンピュータを脳の増幅装置として考えた場合、80年代以降それは急速に発達し、過度なまでに社会の脳化を促進してきた。それはインターネットという力を得て指数関数的な爆発をもたらし、人類が消化しきれないほどのありとあらゆる情報を産み、流通させてきた。そして情報の海に放り込まれて初めて気がつくのは、それを泳ぐなり、サーフィンするなり、船を作って航海するなりして上手に遊ぶには、なんにせよ体力、つまり今まで自分が放置してきた身体の力が必要になるという皮肉な事実だった。重さゼロのパターンの組み合わせで出来上がったどんな「情報」ですら、その扱いを下支えするのは結局は物理的制約を持つ肉体であって、ソフトウェアの処理を高速化しようとするとハードウェアの泥臭い世界でぐりぐりと奮闘しなければならないのと同じ理屈だ。人間の世界で言うなら、要するに体を鍛えるということ。


人間というハードウェアの(現時点での)駄目なところはオーナー自身の手で容易に修理交換ができないことである。一方、それを補って余りあるほどの素晴らしい点は、鍛えることができる、ということだ。トレーニングを積むことで、性能をアップさせることができる。泳げるようになったり、早く走れるようになったり、重いものを持ち上げられるようになったり、むずかしい計算ができるようになったりする。これこそが、(いまのところ)生物しか持ち得ない能力だ。しかも人間は鍛えようという意図を持つことで、自分の体を環境に対するリアクティブな性能アップではない、いわばプロアクティブな性能アップをすることができる。これはつまり、未だ起きていないが、いずれ起きうるような事態に対する対策を予め取ることができるということだ。一個体内に閉じた進化とも言える。これをもっと能動的に使わない手はないだろう、というのが、自分自身のテーマだ。


この2つは同じようで異なっている。だが自分の中では「身体性」というキーワードでくくられる1つのテーマである。これを起点として考えることで、音楽の身体性というテーマや、個人の認知に基づく知性に与えるその個人の肉体のありかたの影響、といったことに考えを巡らすようになる。脚の骨がホンの少し曲がっていることが、その人の認知に影響を及ぼし、ひいては構成される世界観の歪みにもつながるであろうと、かなり本気で思っている。閑話休題


これらのテーマは、いずれロボットやRT(Robot Technology)という言葉で表される、今までに存在しない「なにか」という形で結実するはずだ。そしてそれは、人類が自らの優秀なコピーを女性の子宮を使わずに、つまりDNAを介さずに作るという、新たなステージへの序曲を奏でることになるだろう。