最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

考えてみると

1996年4月、30歳で大学院に入り直した結果、当時の22歳や23歳で大学を卒業したばかりの連中と同じ研究室で過ごしたので、7〜8歳下つまり1972年前後の友人はけっこう多いから付き合い方も慣れているというか、感覚的に分かる。そして1997年には長男が誕生したので、その前後生まれの連中ともそこそこ繋がりがある。

ところが1980年代生まれの、2019年現在の30代の人たちとは数人の知り合いを除いて、親しく付き合いのある人がほぼいない。約20年違いの1990年〜2000年代に青春を送った、今まさに活躍し始めている人々。物心ついたときにはパソコンなりファミコンがあったデジタルネイチャー第1世代と言えるだろうか。そして10代の多感な時期にネット文化にどっぷりハマったりしているのだろうか。高校時代にネット用語を使って今懐かしんでいたりするのだろうか。

とても興味深いな。ただ自分がそうだったように、年長者へ向ける視線はきっと厳しいだろう。とくにいわゆる元年入社世代やバブル世代という社会のお荷物的な存在と思われている自分世代に対しては。それはまあそうだろう。バブル再来を密かに待望しながらネトウヨ化しつつマラソントライアスロン、場合によってはゴルフに励む昔の同級生は多い。そしておれはどういうわけかそういう連中とは決定的に話が合わず、同窓会的なものにもあまり積極的ではない。

大学院に社会人学生ならぬ高齢無職学生として入学して過ごした時期はインターネット黎明期と重なってとてもおもしろく、善意に基づいたインターネットならではのrコマンドや素のtelnetftpが残っていたからいろいろ夢は膨らんだが、ネットが社会の一部に吸収されるに伴ってそういう*過剰な*おもしろさは消えていった。googleが世界を整理し始め、当時の機械学習NLPも魔法でも万能でもなかったことに気づき、かといって先端を開拓するような能力もなくドロップアウト同然で修了したが、あの環境であれこれ試したことで足腰は鍛えられたのではないか。それと同時に、団塊ジュニア世代の文化に触れ、エヴァンゲリオンなどに感動するなどして、同世代の文化から少しずれていった。

義母を見ているとつくづく思うのは、高い知性と好奇心があれば80過ぎてからでも誰にも教わらなくてもMacどころかiPhoneだって使いこなせるようになるし、若い友人もたくさん作れるし、世界遺産検定1級を取得することもできる。あんなに自由に生きられるなら80になっても楽しいだろうと思う。彼女にとっては相手が50代だろうが20代だろうがさして違いはない。自分は人生にロールモデルなんて持たずに生きてきたが(それだけに迷走だらけだが)、彼女は1つのロールモデルになりうる。

結局、こうやって考えてみると、世代で閉じようとしてしまうのは、スコープ(フレームでもウインドウでも)を狭めることによって、知的刺激や差異から身を遠ざけようとしているということではないか。世代によるバックグラウンドの差は確実にあるし、それだけでなく性別でも外国でも習慣や文化の大きな差はある。でもちゃんと知性を手放さずopen mindedでいられたらそれらは乗り越えられるはず。

OSがハードウェアの差を吸収した結果、ハードウェアもOSも発展したし、次にインターネットがOSの差異を吸収した結果、またもう1段階発展してスマートフォンにバトンを渡せた。次はなんらかのAR/VRウェアラブルバイスだろうか。いずれにせよ事程左様に1つ下のレイヤーの差異は、(うまくいけば)上位レイヤーが吸収してくれる。それは人間で言えば、性別だったり染み付いた習慣だったりしても、知的に成長できればそういった差異は乗り越えられるということだ。逆に言えば、そういう差異で人々が争っているとすれば、それは上位レイヤー、つまり知性が不足しているといえるだろう。だから反知性主義が跋扈すれば争いが絶えることはなくなるだろう。

話を手元に戻すと、親子や親戚や友人の争いは、その辺りに原因があるのかもしれない。ただ、人と争わない義母ですら唯一苦手だったのは、合理的な理解に基づかない教条主義的な習慣や考えを押し付けようとする人間だった。我が父である。父は戦前生まれで軍国少年だったが、敗戦によってこれぞ正義と信じていた盤石だった価値が崩壊した。結果として自分で自由に考えるのではなく、より大きく揺るぎのない物語に帰依することを望んだのだろう。キリスト教の洗礼を受けた。そして同時に役人という職業を選んだ。堅物にしか思えない選択だが、子供の私から見ても、酒こそ弱かったが豪放磊落な性格で人付き合いも良く、一度会ったら友達、二度会えば親友を地で行くような人だった。義理堅く人情にも篤く、古い大企業の役員みたいな人だった。その反面、というかだからこそ、決まりは決まり、という頑固さがあった。それはまさに義母の学者的な意味での精神の自由と真逆なものだった。