最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

おもいつき

人間はフレーム問題は未解決のまま生きている。思い込みや勘違いや誤解があるまま生きているが、先人の知恵やより有能な人の知識が伝わったり個体が相互にコミュニケーションしていさえすれば、生命に影響のない一定の誤差の幅の中でなら死ぬまで生きていくことは可能だろう。今の場所でうまく行かなければ、ランダムにどこか別の場所への移動を繰り返せば、より適切な場所を発見することは可能だろう。当然、それすら誤解かもしれないが、本人の認識こそがすべてなので、そこで快適だと勘違いし続けられればなんの問題もない。

許容する誤解の幅の広さ狭さの違いで、どういう人間関係が構築されるかは変わってくるだろうし、相手によってその幅を変化させることで、多様な人間関係を作ることも可能だろう。同じ人間なら、たとえ最上位レイヤー的に理解できなくとも、最下位レイヤーであれば共有できることは多いので、人間のもつ多層性のどの部分をどのぐらいの厚みで共有できるかで、人間関係も変わってくる。

恋愛関係なんかだと、下層の本能レイヤーあたりでの相性は重要だろうし、その関係の深さや長さはそれより上層についてどの辺まで共有できるかが鍵かもしれない。それに政治的に対立している者同志がそれより下層のレイヤーでの相性の強さによって性的に結ばれるのはよくある物語ではある。

一方そういう性的関係を伴わない間柄なら、下層の身体性に囚われない関係構築は可能だろう。ネットでの関係はそれに近いとおもう。

身体というハードウェアの上に感情というBIOSがあり、その上で人格というOSが知性というアプリケーションソフトウェアを動かし、それらがネットワークを通じてコミュニケーションを取る、というのが自分が密かに考えてきた人間に関する1つのモデルだ。もちろん他のアナロジーはいくらもありうるが。

だからスタンドアロンでいる限りフレーム問題は解消できないものの(それでも生きることはできる)、ネットワークの存在によって、より環境に適応した存在に変容していくこともできるという考えに至る。