最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

少し前に

受け取ったメッセージを読んで気づいた通りの展開になったのであまり驚きはない。合理的判断だとは思うので納得感もある。ただ気分は沈むし、浮かれていた自分がつくづくバカみたいだとは思う。脳の上位レイヤーで納得していようが、下位のレイヤーがNoを出し続けることがあるのが人間の厄介なところだ。負の感情は消化するか昇華するしかない。消化は簡単だが昇華は時間がかかる。

方便のための嘘とそれをひっくり返すような発言、両方受け止めて「いったいどういうことですか?」と問い詰める気にはまったくなれない。いずれにせよ意図は同じだからだ。発言の不整合を指摘したところで、背後にある意図が同じだから意味はなく、せいぜい「対応が雑」なことへの文句にしかならず、それは結果的に「雑な対応でOK」と思われていることを改めて明らかにする効果しかない。

まあ定石通りの対応だから定石で受け止めれば良いだけだが、単なる冗長なプロトコルにしか思えない。その冗長なプロトコルによって真の理由が隠されたことで彼我の間に断絶があることを知るし、それは「配慮」に相当するものだということだろう。

おもしろくはないが、それが向こうから見た自分のポジションであって、そのポジションはけっきょく今までの自分の行動の集積なので受け止めざるを得ない。

残された時間がたっぷりあった頃は、それでも(単に未来が見通せないという理由だけで)楽観的でいられたが、カウントダウンが意識できる今の時期だと絶望にしかならない。昇華するには時間も体力知力を含めた能力全体も足りないと感じてしまう。

とはいえ、求めるものと現在の自分との間にある計り知れないギャップを死ぬまで埋め続けようとする以外に選択肢はないのだろう。結局。そして達成したかどうかは誰かからの承認によって決まるのではなく、自分がOKと言えるかどうかでしか決まらないのだろう。

やれやれ、ますます困難になってきた。そしてきっと満たされることなく死ぬのだな。