最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

勝ち負けとか物語とか

むかしから勝ち負けとか点数とかにあまり関心が持てないまま生きてきた。結果に至るプロセスをショートカットして点数にこだわれる人がちょっとうらやましかった。自分にとって勝敗や点数というのは、色んなプロセスを経た上で結果的に出てきたものでしかなく、それ自体にはさして意味が感じられない。そういう一見斜に構えたような姿勢を親や教師からよく批判されてはきたが、別に斜に構えているわけではない。おもしろいと感じないだけだ。

結果として勝とうが負けようが、そこに至るまでのストーリーにこそ滋味がある。勝者の何万倍も存在する敗者こそ真に豊かな物語の宝庫だろう。もっと言えば勝敗も点数も関係のない世界にこそおもしろいものは広がっているはずだという確信があったし、当時好きだった音楽や文学やコンピュータや恋愛の世界の一部はそういう場だった。ヒットチャートの順位とか点数と無関係な喜びの場。

少しでも良い音、良い文章、速いアルゴリズム、そういうものを求める姿勢は、結果として他者の評価や点数や勝敗をもたらすかもしれないが、それ自体は決して目的ではない。男女間にしても見た目をいくら追求したところで、表面的なものでしかなければすぐに退屈してしまう。

Appleだって時価総額世界一だからすごいのではなく、すごいものを作ってきたから結果的に時価総額世界一になった。ノーベル賞をもらった物理学者もノーベル賞をもらったからすごいのではなく、すごい成果を出したからノーベル賞をもらった。さらに言えば、物理学者はなんかの試験に受かったから物理学者なのではなく、物理学を研究しているから物理学者と呼ばれている。

こういう、順序として当たり前のことがどこかで逆転してしまっている。

幼い子供に「将来、何になりたい?」という質問は危険だ。きっとよりよい質問は「将来、何をする人になりたい?」あるいは「何をするのが好き?」

「〜で優勝した人」「〜で賞を取った人」というラベル(そういえばこういう場合だけなぜレッテルというのだろう)をあまりに強調してしまうと「日々〜をしている人」という現実が抜け落ちてしまい、単に有名になってスポットライトを浴びたいだけの人を量産してしまうことになる。

ただ一方で、物語の豊かさにひたすら耽溺するのも苦手だ。それはそれですばらしいが、自分としては一定の距離をおいてドライさは維持していたい。その結果、情緒的な繋がりが期待されるコミュニティーに所属し続けることも難しくなってしまうが、仕方ない。頭に血をのぼらせてわいわいやっている人々の輪の中から、ちょっと外気に当たりに抜け出して、結局そのままどこかへ行ってしまうタイプかもしれない。

どちらにも入り込めない結果、中途半端な人生を送っている訳だが、誰かの歌じゃないがまさに "born this way" なのだ。それで生きて得たもの失ったものが、自分の人生だってこと。