最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

学習するAIを学習するNIたる私

25年前に冬のNLPを勉強していた頃の友人で今は教授になってしまったNに「NLPは10年ぐらい前にリセットされたので学ぶ必要があるのは25年分じゃなくてほんの10年分」と言われて以来、時間を金で埋めてやろうと若干投資をして読んだり視聴したりしている。

とはいえ先端部分の変化が速いのでそれをキャッチアップするラインと、過去の10年分の基本を学ぶラインの2本のラインを同時並行で動かしていると、どうしても先端を追いかける方の比重が高くなりがちだ。毎朝のモーニングAI配信を視聴しているためで、それはある研究者が毎日出てくる論文をチェックする時間をそのまま配信する番組で、ぼんやりしているとどんどん進んでしまうが、集中力を持って見ていると非常に有用だ。どういう点に着目しているのか、なにを新しいとかすごいと評価しているのか、そういう非言語的な部分が参考になるのだ。ただ、現在の自分の理解レベルでは話の内容の大部分は呪文なので、この番組がちゃんと理解できるようになることが現時点での目標だ。

そのためには、もう1本のラインを日々地道に動かしていくしかない。ある時点での知識を学ぼうとすると必然的にそれまでに積み上げられてきた知の集積を遡及的に学ぶ必要があって、それはそれでまた大変だが、そういう山を登ること自体はたのしい。誰かに強制されるのでない限りは。

本来、学ぶってそういうものだろう。自分が生まれ落ちたこの世界とは一体なんなのかを知る。先人が積み上げてきた成果を吸収し、そこから出発して自分の身体で世界を歩く。そしてまた戻って別の角度や別の範囲から集められた成果を吸収し、また自分の身体を使って世界を歩く。その繰り返しこそが学ぶことであって、国家に貢献する*人材*を作るための手段として標準化された媒体を使って洗脳されることではない。洗脳も部分的には役に立つが、あくまで自分が中心であるという魂まで明け渡してしまってはいけない。

そうやって得たものを日常の生活に活用できるならそれに越したことはない。それは道具を作るとかそういう営みだ。世界を学び世界を変える、という循環を繰り返すことが、自分にとっては生きている実感が得られる営みだ、と言いたいところだが、それは今までのところでは達成されておらず、動物的な生命を維持する+αだけのことしかやってきていない。残念だがそれが実態であって、とはいえ残りの時間は少しでもその実感を得る営みを増やしていきたいものだ。