最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

3つの記号

長らくぼんやり生きてきてしまった。その期間はひょっとすると15年ぐらいあるだろうか。夏休みの宿題よろしく現役年齢が終わりそうな今になって慌て始めている。見て見ぬふりをしても良かったのだが、自分の中に僅かな未練を感じたので、いろんなコミュニティと接点を作りながら頭を再トレーニングすることにした。高強度の記号操作トレーニングだ。自然言語、コンピュータ言語、音楽言語の3種類の記号体系について自主トレーニングを行う。レベルは初心者レベルだが、ぼんやり生きてきた過去から見ればだいぶハードだ。なぜこの3種類かといえば、単に好みの問題だ。数学も必要とは思うが、コンピュータ言語のトレーニング内で発生する課題について必要に応じて補完するに留める。

自然言語については言わずもがな。すべての知の基本だ。長い間、中身の乏しいSNSの言語ばかりに囲まれていたのと読むものを利便性優先で電子書籍に限定したせいで、まとまったテキストを噛み締めるように読む機会を喪失していた。しかしここに来てLLMが大量のコーパスを学習してある程度まともな出力をするのを目の当たりにし、脳の処理性能が多少低くても読む量こそが圧倒的に重要なことを痛感したので、手元に積まれてきた数多くの良い本をしっかり読む。

コンピュータ言語とは、プログラミング言語を含むがそれのみを意味しない。現在でもプログラミング言語はソフトウェアを形作る多くの構成要素の中の1つではあるが、それ以外の環境を作ったり操ったりする方法なども含めてコンピュータ言語とする。ぼんやり生きてきた15年ぐらいの期間の喪失は、これがもっとも大きい。なにかのシステムやサービスを見てもどういう仕組みで動いているかの見通しが効かなくなった。普通の開発者が普通に使う環境についての知識が完全に欠如している。すべてを埋められるとは思わないが、現時点でのスタンダードを身につけた上で空白部分を補っていきたい。

音楽言語については、1年ほど前から「作曲講座」という名の下、音楽理論音楽史などについて学び始めたが、まだとても自分のものになったとは思えない。1週間で30分間という極めて限られた、講師に直接指導してもらえる時間以外にも音楽史や和声などについてもっと時間を割いて学ぶ。聞いて理解するだけではなく、なんらかのものを生み出せるレベルに到達する。

今まではジムでの筋トレなども含めて肉体に偏った活動が多かったが、衰えつつある脳を人生の終盤で社会のために実用的に活かすには今のままではまったく不十分なので、焦って取り戻そうとしている。もちろん最低限のレベルに到達せずに無駄に終わる可能性も否定できないが、やるだけやってダメなら諦めるし、活用できる場を見つけて小さな世界でもそれが人々の役に立てばそれは甲斐があったというものだろう。

都内の拠点

平日に都内での種々の活動に参加しやすいように1ヶ月ほど前に拠点を用意した。自宅から電車で乗換なしで1時間で行ける上に、秋葉原や浅草橋にアクセスが良い錦糸町まで徒歩10分の賃貸マンションの一室だ。スカイツリーが見えるだけでなく、屋上に上れば花火大会も少しは見える。なにより駅周辺の商業施設の充実度がハンパなく、のどかな田園都市住民としては度肝を抜かれた。今週から本格的にそこで平日を過ごし始めた。

古いマンションなのに最新の10Gbpsの光ファイバーが引けるし、目の前にあるLUUPやタイムズカーシェアを使えば安くで色んなところに行ける。駅周辺にはヨドバシカメラをはじめとしてドンキもあるしシネコン、書店、無数の飲食店がある。大きな公園の向こうにも商業ビルがありビックカメラニトリをはじめ、大抵のものがある。巨大なコンサートホールすらある。それらがすべて10分以内の徒歩圏にある。南口側は北口とはまた違って興味深いのだが、まだ探検する機会はない。

錦糸町に限らずあの辺りは、街の作りが自宅のあるベッドタウンとは圧倒的に異なる。というか歴史がまったく違うので当然だが、田園都市線の住宅街に欠落しているものがここにはある。両方に住んでみてはじめて気が付いた。JRパワーなのだろうか。生まれた時に住んでいた世田谷の烏山ともぜんぜん違う。それは今のところ若い人々、外国人、文化、活気、などに見えるが、まだこれから知ることになるだろう。

自宅周辺では潰えてしまった書店に行ってみて痛感した。Amazonの一番古い注文履歴は2001年というくらいヘビーユーザーなので、近所の書店で見つからない本を手に入れるためにAmazonばかり使うようになり、ある時期からは多くの蔵書は電子書籍化していったのだが、それによっていかに多くのものを失ったかを。書店でしか出会えない本や、書店内を定期巡回することでしか得られないなにかがあることを一気に思い出した。

「自分自身」には飽き飽きしていた。自分を積極的に開いて未知の外部を取り込んでいくことでしか新しさに出会えない。好奇心を満たせない。元々はテックコミュニティと接点を持つための手段としての都内の拠点だったが、予想を超えて視野が広がりつつある。自分を変えるためにできる一番シンプルなことは環境を変えることと言われるが、まさにその通り。しかも今まで無縁だった場所に身を置くのがおもしろい。

 

なにか不条理なものに対して

怒りまくっていたフェーズは過ぎ去り、諦念とともに受け入れるフェーズに移行した。まだ若く未完成なものに対して熱意を持って接することにはなんらかの意味があると信じられるが、完成から熟成を経てほんのり腐臭すら漂うものに対して、それを変更しようというのはおこがましいし実際不可能だろう。それに多勢に無勢。民主主義的な意味での軍配は我に上がることはない。主よ、変えられるものを変える勇気と、変えられないものを受け入れる忍耐力と、その2つを区別できる知恵をお与えください。と柄にもなく唱えてみた結果、あああれは変えられないものだ、と理解したのだった。であれば、求める結果への理路が間違っていようが、最大多数の最大幸福と信ずるものを得るが良い。我はその行く末を見守ろうではないか、という境地に至った。ここは自分にとってあくまで訓練の場であって、実践の場は別にある。それを今一度思い出したのだった。

一方で都内の拠点の整備は着々と進んでいる。ちょっと変な物件を見つけたので地元不動産の人に案内してもらったら、なかなか良い。眺望も良いし、屋上にも出られる。しかも安くて間取りも細かく区切られてない。住もうとするなら若干気になるポイントはあるものの、仮の住まいなので一切気にならない。むしろ弱点は有効に活かそうと思える。しかも契約後に分かったことだが、ここは自宅では決して得られない10Gb光が引けるのだった。ここを拠点に何と交わり、企て、生み出し、送り出せるか、希望が膨らむが、そうは問屋が卸さないので、地道に着実に行く。

しかし秋葉原や浅草橋、上野などにアクセスが良いこの地は、自分が育ったベッドタウンとは街の成り立ちがまったく異なっている。実に新鮮だ。ここは駅名がすべてが一通り揃う街の名前として通用するが、都会のベッドタウンは文字通り住宅ばかりだ。商業機能は駅周辺に若干あるだけで、山を切り開いて作られた住宅地は坂が多く、駅から離れた一軒家に住む高齢者にとって買い物はかなりの苦行である。

都心で働くホワイトカラーと、それに対応する主に寝に帰る場所としてのベッドタウンは、ワーカーを地域社会から切り離し、その結果やせ細った地域社会が残される。主婦や子どもたちは行き場を失う。そしてそれをサポートする存在が必要とされる。定年を迎えたサラリーパーソンは主に男性で、何十年も縁がなかった地域社会にいまさら溶け込むのはかなり難しい。

職住が完全に分離され、ぎゅうぎゅう詰めの電車という実に窮屈で細い交通のみで接続され、毎日疲弊しながら40年近くを過ごすのと引き換えに、ベッドタウンの一戸建てを得るのは本当にバランスしているのだろうか。せっかくの一戸建ても主が疲弊してしまった結果、十分に生かされないだけでなく、主婦の掃除や庭の手入れの負担を無意味に増加させているのではないだろうか。

リモートワークという形態が多少は認知された結果、無意味な通勤によって心身をすり減らす必要は若干低下したようだが、それと同時にサラリーパーソンは会社の人間関係だけでなく地域社会でもちゃんとした人間関係を紡いでおいたほうが良いだろう。その際には、会社での肩書や役職を離れて素の人間として他者と接するような、オープンマインデッドな姿勢が大事だ。その地域社会で活かせるスキルがあるなら活かせば良いが、ただの肩書は邪魔にしかならない。だがそれができる人は一握りだ。

眼前の混沌

そして混迷や失望や絶望が増せば増すほど、心の中になにかのエネルギーが蓄積されていくのを感じる。意地とかプライドと呼ばれるものかもしれない。この負のエネルギーは遠からず反転して放出される日を待っている。厄介なことに、バカにされてもヘラヘラ笑ってはいるが、腸は煮えくり返っていたりする。しかしそれをその場で脊髄反射的に放出してしまえば、その場ですっきりはするかもしれないが、建設的なことにはならない。この年齢からそんな動物みたいな生き方は嫌だ。ほっといたって万が一80過ぎまで生きれば動物みたいになるんだから、せめて今のうちは理性を保っておきたいものだ。

具体的にそのエネルギーをどう活かすかだが、学習と実践しかなさそうだ。ソフトウェアエンジニアとしては完全に素人同然に堕してしまったので、まずは再学習する。今の脳には過剰な負荷で無理そうなら諦め、なんとかして業界周辺での居場所を確保する。そこからネットワークを作っていければベストだが、能力のない者に居場所はないのかもしれない。まあなんとかしよう。カッコつけずに破れかぶれでやれば活路はあるかもしれないしないかもしれない。ダメなら隠遁生活を送る。森で。

27年前

会社をやめ、北陸へ居を移し、身分も学生に戻った。当時は冬の時代だという認識もないまま、AIの一分野を学んだ。研究者になれたら良かったが、その力はなく、3年後に再び関東に戻って企業に所属した。自分の中では期間を決めて、その後は独立するつもりだった。きっかり3年後にやめて、小さい法人を設立して請負仕事をした。しばらくして知人と一緒に2駅離れた実家そばの父所有のマンションに株式会社を登記し、請負仕事をしたりソフトウェアを作ったり派遣をしたりした。ここまでで最初に会社を辞めてから10年が経過した。そこから4年、私が新規事業も立ち上げられず、いつまでも派遣させられる状況に業を煮やした知人は離れ、自分はそのマンションに家族と一緒に転居した。同時に1階の商店街の空きテナントに事務所を用意した。

世田谷の団地→横浜の実家→石川のアパート→横浜のアパート→横浜のテラスハウス→横浜のマンション、と6ヶ所に住み、最後に転居してから13年経過した。数年前に妻の事業が合流し、会社の業績は向上して安定した。

今年、2つの波が来た。いよいよ身近になったDLによるAIと、遂に実用になるかもしれないVRだ。冬だったAIの世界にはとっくに春が来ていてもうすぐ夏。なかなか離陸しなかったVRは名前を変えてついに来年には離陸する勢いだ。長いことこのタイミングを待っていた。

新しいことをしようとする時に、住む場所や環境を変えようとするのは悪い癖だと妻には言われている。今までもそうだったし、だからと言って成功したわけでもない。だから「ここ」にいたって同じだから、余計な費用をかけるなということだ。実に合理的。だが、過去を振り返れば、新しいことをやろうとしてうまくいかなかっただけで、どこに住んでいたかは直接関係はない。単に新しいことをやり切る力がなかっただけだ。

ここに住むようになって13年経過し、生活は安定したと言える。いやむしろ安定しすぎた。同時に以前の自分と比べて多少は賢くなった。すごい人やひどい人やふつうの人や変わった人、色んな人に接して相対的に自画像が多少明確になっただけだが、願望や虚像抜きでできないこととできることを受け入れ、自分の姿がより正確に見えるようになってその認識に至った。

そして自分にとっては次の段階が来たと感じたので、都内に拠点を構えることにした。というと大げさだが1人には十分の広さの賃貸マンションを借りた。またうまくいかないかもしれない。100点でなくても、なんなら60点でよい。今度は自社から受け取る報酬だけではなく、外の仕事もして外部からも収入を得るつもりだ。より頻繁に積極的に外部と関わるための場であって、閉じるための場ではない。自分は1人でなにかを成し遂げるタイプではなく、他者との関わりが必要なタイプだ。それが協働という形を取るかどうかは別として。

前期高齢者というレッテルが貼られるまであと10年もない。健康状態も勘案すると機会としてはこれが最後だろう。新しい人と出会い、新しいことを学び、考え、集め、今まで考えたり集めたりしたものも形にしたい。やるだけのことをやったら結果の如何によらず、残りの時間は妻とたのしく穏やかに旅をしよう。

あっという間に

時間が経過してしまった。どういう訳か先月下旬から今月頭ぐらいまでなぞの体調不良が続き、あまり活動できていない。そういう時間が続くと、後で振り返ったときにまるで時間がすっぽり消えてしまったように感じるものだ。2週間スキップしてしまったようにタスクは進捗せず、頭髪は2週間分余計に伸び、ブログは2週間分存在しない。こういう類の体調不良は、不定愁訴というのか、自律神経失調というのか、とにかく他人からは分かりづらいもので、自分が当事者でなければ絶対に分からない自信がある。

いろんな複合的な理由によるものだろうが、科学実験ではないので怪しいと思われる原因を1つずつ潰すなんていう悠長なことはせず、怪しそうなものは全部対処する。

どうしてたどり着いたのか忘れたが、後鼻漏とそれに関係する上咽頭炎から自律神経失調症というルートがあるらしいので、定期的な鼻うがいによってまずそれに処する。

次は、ぐっと減りづらくなってしまった体重をどうにかする。運動だけでは限界があることは以前、身をもって知ったので、今回はアプリを利用してカロリー管理を行う。

3つめは、適度な運動を再開する。経験上、つい過度な運動になってしまいがちなので、適度であることを意識しながら、心肺機能の向上と筋力低下防止を目標として継続する。

睡眠についてはどうしようもないので、ベッドにいる時間を8時間確保して休む。睡眠が伴わなくても気にせず居続ける。

体重が人並みとは言わずとも、80kgぐらいまで減ってくれたらもっとラクになるはずと信じている。睡眠にしても呼吸にしても。多少何かやって少し体重が減っても、気がつくと94kgになっていてそこで数字が固着して動かない。どうにかしてほしい。

肉体というハードウェアの不安定さは、精神活動や知的活動のパフォーマンスにダイレクトに影響を与え、ひいては自分や他人に迷惑をかけることになる。迷惑をかけるのはお互い様なのである程度しょうがないにしても、自分が望むようなパフォーマンスを発揮できないフラストレーションやストレスは悪循環になるので、そこはなんとしても改善したい。

今後、残された時間を意識しながら生きていくことになれば、やりたいこと、できること、やりたいけどできないこと、などの取捨選択や優先順位が重要になっていく。体力がありあまっていれば、何でもかんでも全力で手を出せばいいのだが、限られた資源を有効に活用するにはそうもできない。どういう訳か、歳を重ねるごとにやりたいことが増えていく。だがそれは同時に、やりたいけどできないことも残念ながら増えることを意味している。本当は賢く折り合いをつけて生きていくような小賢しい真似はしたくなかったのだが、体力も時間もそれを許してくれそうにない。

満ち満ちていた未知の道

小学校4年生ぐらいに父の友人(正確には違うが)からもらった中古のラジコンエンジンカーをきっかけに雑誌「ラジコン技術」を読み始めた。そこには手の届かないような高価で高性能なラジコンカーやとても飛ばせるとは思えないラジコン飛行機やヘリコプター、どこで遊べばいいか分からないラジコンボートなどの広告がキラキラと光を放って掲載されていた。それだけでなく記事の内容も小学生にとっては高度なので、分からないなりに何回も読んでなんとなく分かるようになった。水陸両用の京商のアンフィバギーとか、大型エンジンを搭載しバックが可能な松下電工のキャットバギー、石政のラットバギー、フタバのサファリバギーなどどれも魅力的だった。エンジンに目を向けると、エンヤ、O.S. が2大巨頭で、ハイネスというダークホースも登場した。いずれも手が届かない、雑誌を通してしか知ることのできない未知の世界だった。

男子校の中学に進学した時、合格祝いで祖父が一眼レフカメラを買ってくれた。Canon A-1という機種だ。小学校2年生ぐらいからKodakの110カメラで写真を撮りまくっていたので、その延長上だった。どの機種にするかずいぶん悩んだ。本屋で手当たり次第に雑誌を立ち読みして「アサヒカメラ」という雑誌を選んだ。それとカタログを眺めてはA-1がいかにすごいカメラかを確認し、露出の調整方法や焦点距離など操作方法の基本や周辺アクセサリなどについても学んだ。実際にカメラを手にしてからはキャノンサークルに加入して会報を購読した。そこには多くのアマチュアカメラマンの作品が並び、プロの講評も掲載されていた。自分もバカみたいに写真を撮りまくったが、当時は現像してプリントするたびに36枚で3,000円とかかかる今思えば高価な趣味だった。おまけに自分で撮る写真には当然自分は写っていないので、その頃の自分の写真は父が撮影した何枚かしか残っていない。そして当然その延長線上には自宅でカラー現像をし写真を焼くという目標がそびえているが、それはかなり高度なものに思えた。カラー現像セットの広告を見て比較などしていたが、結局それは果たされなかった。

進学と同時にブラスバンド部に入った。以前から音楽は好きで幼稚園時代には1年ぐらいピアノを習っていたし、TV番組は特撮もアニメもドラマも内容よりも音楽ばかり楽しみにしていた。TVの映画番組枠のエンディングで聞いた曲や、CMで聞いた曲がどうしても気になり、当時はメロディーが分かったからといって調べる方法がないので、母や叔母にレコード屋に連れて行ってもらい説明した結果、それらはそれぞれホルストの惑星組曲の「木星」と、ベートーヴェンのロマンス第2番だということが分かり、レコードを買ってきて聞いた。だが当時の自宅のステレオは古く、音が今ひとつだったのでFMラジオを聞いていた気がする。でもいずれも生演奏を聞く機会はなく、毎日通っていた本屋で見つけた「レコード芸術」という雑誌を毎月読んでは世界のオーケストラや指揮者やピアニスト、バイオリニストなどを学んだ。部活で演奏する吹奏楽曲もいいが、オーケストラに憧れた。2年生のとき友人と飛び込みでNHKホールに行き、よくわからないままチケットを買ったら最前列だった。オトマール・スウィトナーNHK交響楽団の、たしかチャイコフスキーだった。初めてのオーケストラ体験は圧倒的なものだった。すごすぎて脳が飽和した。いつか自分もオーケストラに参加したいと思うようになったが、しばらくの間はレコード芸術とたまに行くコンサートだけが接点だった。

中学校2年生になったころ、母の教え子の3つぐらい上のお兄さんから世の中にはマイコンというものがあると教わり、早速本屋に行って「月刊アスキー」、「RAM」、「I/O」などを読み比べて「月刊アスキー」を毎月読むことにした。電子工作とマイコンを接続してレーザープロッタを作る記事なんかを読んで凄さに圧倒された。そしてちょうどこれからNECPC-8001が発売されるぞ、という時期で特集が組まれていた。ひたすらPC-8001のスペックや機能やBASICの文法を読み漁った。NECにはTK-80やそれをケースに入れたTK-80BSがあり、一方シャープにはMZ-80Kというキットがあった。海外に目を転じると、CommodoreのPET、Tandy Radio ShackのTRS-80、そして燦然と輝く AppleIIが雑誌の広告で輝いていた。PETはある意味未来的でSFに出てきそうなデザイン、TRS-80は渋いカラー、そして6502を採用したAppleIIは美しいクリーム色と滑らかなデザインに6色のリンゴマークが目を引いた。若いスティーブ・ジョブスが眩しくヒーローだった。今ならただのキーボードにしか見えないが、MicrosoftのBASICインタプリタを搭載しているものが多かった。だがそれら実物は秋葉原や渋谷の西武百貨店なんかに行ってやっと触れるぐらいで、そのために休日を潰して友達と一緒に朝から晩までBit-INNのPC-8001の前に座り込んでプログラムを打ち込んだりデバッグしていた。とはいえ、AppleIIに触れる機会はまったくなく、渋谷の西武で同じ歳ぐらいの少年が砲弾を撃つゲームみたいなのをいじってるのを遠巻きに眺めるだけで、未知の世界だった。

高校も後半になるころ、自分はオートバイの免許が取れる年齢になっていたことに気づいた。当然だが自分の通っていた高校ではバイクの免許取得は許可されていなかったから、それに気づいて以来、オートバイの雑誌を買ってはいろんなバイクを羨ましく眺めていた。当時の自分はとにかく1人で遠くに行きたい気持ちが相当高まっていたので、デザインよりも燃費が良くて無駄な装飾のない速くて遠くまで走れるバイクを探していた。しかし当然ながら高校時代も受験に失敗した浪人時代も望みを叶えることはできず、大学進学以降へと持ち越した。

そうやって多くのことは月刊の雑誌から学んだので、実物は手の届かない遠い場所にあった。そしてそれらはどれも10代の自分にとってはきっと本物以上に輝いていた。どれも実際に手にした時は本当にうれしく、生涯の友になったけれど、雑誌で見ていた時に想像していた魔法のようななにかとはちょっと違った。いやたぶんその想像を超えた素晴らしい世界だったのは間違いないが、10代の想像力が夢見ていたあのクオリアとは異なるものだった。むしろそのクオリアは想像だけの頃の方が輝いていたと言える。実物には実物なりの制限や不自由さがあり、進歩したり老いることによって爆発的に得られたものもあれば失われたものもある。それは良い悪いではなく、単に変化しただけだ。

ただ、最近時々、雑誌でしか触れることができなかった時代に自分の脳内で生み出していた世界が恋しくなることがある。その断片を頭の隅っこに発見したり、ネットの情報に当時の断片が見つかったりすると、甘酸っぱい気持ちが蘇る。これからまたそういう経験をする機会はあるのだろうか。未知への憧憬が。