最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

自分の

脳が自分で考えていると意識しているものなんて、肉体全体の活動から見たらごくわずかで、意識が及ばない部分で大部分のことが起きている。本を読んだり映像を見たりして自分が獲得したと意識できることもごくごくわずかしかない。それ以外の膨大な情報はよくわからない形で無意識の部分に格納されいてるはずだ。それはきっとLLM的なものであって、外部から観察したり分析したりして説明可能な形にしているものを意識と呼んでいるんだろう。

自分が分かってると思っていることが実は分かっていなかったり、逆に知らないし分からないと思っていることについてどういうわけか正解できてしまうようなことがあって、それは実に不思議であると同時に、ここのところのDLの進展によってぼんやりとそういうものかもしれないと思えるようになってきた。

身体をハードウェアとするとBIOS的にべったり張り付いているのが感情という低レイヤーの入出力機構で、脳の病気などでOSがちゃんと動かなくなってもそこだけはちゃんと活動していたりする。ビープ音が鳴ったりディスプレイが表示されたりディスクトレイが開いたりするように、栄養の基本的入出力や快不快の感情の表現はできる。

脳のLLMへの正常なアクセスを絶たれた結果、感情表現が混線して同クラスタの別の単語で表現されることもあるのかもしれない。こういうことを考えるのは、おそらく一時的な脳の病気を患ってしまった女性の先輩が、どこからどう見てもかわいくない私のことを3年ぶりぐらいに見て「かわいい」と発話したことに端を発している。たぶん来てくれてうれしいとか、元気そうで良かったとか、そういう感情を表そうとしたときに、一番汎用性の高いつまり使用頻度が高い言葉が口をついて出たのだろうと想像する。

彼女の脳にはいまだに膨大な知識や経験が眠っているが、現時点ではアクセスする適切な方法が見つからない。時間とともに改善はしているらしいが、同居の人物が症状を軽視した上に医者を信用せず投薬もしなかったせいで対応が遅れ、不可逆に悪化したのではないかと心配している。

自分にとっては20年以上前に独立した頃からのメンターというより頼れる姉貴分だったので、この事態はなかなかつらいものがあるが回復することを祈りたい。そしてまた「しっかりしなさいよ!」ぐらいのことを言ってほしいものだ。