最後のブログ(仮)

90年代以降作り散らしたblog的なものの最後

Star Shipが照らす、選択の連続と人生の後悔

ある映像を見てひどく憂鬱な気分に陥ってしまった。

Star Shipは試験で宇宙空間に到達後、プラズマの炎に包まれながら重要な使命を終えて行った。乱れていく映像の中の巨大な銀色の宇宙船は美しかった。

3歳の時にTVでアポロ11号の月面着陸の映像を見た。その当時の子供向けの雑誌にはサターンⅤ型ロケットや月着陸船や連絡船の紙工作の付録があり、歪な出来ながらも作った記憶がある。当時の宇宙ブームは子供向けの特撮番組にも影響を与え、宇宙に進出することこそが未来だと信じ憧れた。

その後、月面車やスカイラブ、アポロ・ソユーズなどを経て、高校2年になった頃、まるでSF映画のようなスペースシャトルが飛び立った。TV中継で見た、衝撃吸収のために大量に放水される中、点火されたエンジンから噴射されたガスが徐々に速度を上げ、プラズマ化して見たことがないような速度に達してスペースシャトルを押し上げていく姿に鳥肌が立った。これが未来だと思った。これに携わる仕事をしたいと望んだ。

だがそのために進学しようと思った大学には落第した。別の大学で別の生き方を選んだ。在学中に日本人の宇宙飛行士が3人選ばれて、日本人にも可能性があると知った。

バブル期の売り手市場で就職した会社は素晴らしい会社ではあったが、自分には苦しかった。退職した年に、2回目の宇宙飛行士の募集があった。幸い条件に適合していたので応募して書類選考も通過して試験を受けたがダメだった。そして情報系の大学院に進学した。

その後いろいろあった30年近くを経て、さっきStar Shipの映像を見た。自分が選べなかった世界の輝かしい現在がそこにあった。自分の選択や行動が導いた現在について不満があるわけではない。力不足だったり逃避した結果としての冴えない現在だが、家族や友人にも恵まれて受け入れているつもりだった。だがあの映像を見て強烈に「俺は一度きりの人生を台無しにした」と感じてしまった。今の体調や心理状況も一因だろうが、自分はあの輪の中にいられなかったことを惨めに感じた。世界や日本に煌めく多数の成功者のどれでなくてもいいが、末席でもいいからあの世界にいたかった。

小さな選択の連続だった。一つ誤っても次の一つで近づけたかもしれない。目的地さえ見失わなければ、足元の一つの選択ミスは挽回できる。でも自分は1つの目的地を見続けられず、あちこち寄り道をし、珍しい物や楽しそうな物に心を奪われてしまった。頂上を目指して厳しい登山をするつもりだったのが、ただ楽しくキャンプをしただけだった。

結局、自分はこうしか生きられなかったのだ。それを達成するだけの能力があったとも思えない。あらゆる物語はハッピーエンドではない。不幸な古い友人を失ってそんな感想を抱いていたが、他人事ではなく自分も同じだった。訂正可能性は常に残されてはいるだろうが、全てがオセロのようにひっくり返せるわけではないし、オセロですら裏返せない石がどっさり残ることはある。そんな後悔がずっしりある。到達できなかったことよりも、目指し続けられなかった自分が今心底残念だ。

いずれ自分が死に際して今までの人生をハッピーエンドにひっくり返せるような、そんなたった一つの冴えたやり方なんてものは現実には存在しないという、日常に浮かれていた脳に浴びせられた冷や水のような映像だった。それだけの高みがあった。痛みがあった。

承認欲求という言葉がある。他者からのものは別に望まないが、自分を自分で承認したい欲求ならある。そしてそれはいつまで経っても満たされないだろう。

不意に昔見た「遠い空の向こうに」という映画を思い出した。子育て真っ盛りだったあの時も自分は真っ黒になって地下へ沈んでいく父親かもなと思ったものだった。

 

なお、タイトルははてなのAIがいまいちなのでClaude-3に付けてもらったが大げさだ。